通じるようになった時に訪れる変化 

喫茶店にて。

メニューに『ホットティー(レモンorミルク)』とある。

私「ホットレモンティーください」
店「ホットですかアイスですか?」
私「(?)ホット・レモン・ティーください」
店「レモンおつけしますか?」
私「‥ホット、レモン、ティーをください。」
店「‥ブレンドでよろしかったですか?」

なぜ通じない?
―と、1か月以上考えて、分かってきた。
これはたぶん、世の中が、デジタル化したからだ。

そのお店に行くと、
「ホットティーください」や、
「アイスティーください」は、通じる。
通じた後に、「レモンかミルクお付けしますか?」と聞いてくる。

つまり、紅茶について、まず、
「ホットティー」と「アイスティー」のデジタルな分岐があって、
それぞれの階層の下に、「レモン」「ミルク」の分岐があるわけだ。
だから、最初に「ホット・レモン・ティー」と言われても、
そんなメニューは存在しないから、混乱してしまうのだろう。
レジの画面は客側からは見えないが、
おそらく、レジの画面には「ホットティー」「アイスティー」が見えているのではないか。

最近では、
「ホットティーください」
「レモンかミルクお付けしますか」
「レモンで」
と、「ホットティー」「レモンティー」を最初に言い、
レモンかミルクは相手が聞くまで待つようになった。
相手のシステムを私が理解し、私が合わせるようになったのだ。

この会話が成立するようになった、
この分岐に私が対応できるようになった、ということは、
私もまたひとつ、「デジタル化した」、ということになる。
私の話し方が、デジタルに適応し、
私の側が、変化したわけだ。

昭和の銭湯のように、支払いの際に、
「はい260万円。」などと言ってくるのも、
アナログすぎてずいぶん困惑したものなので、
デジタル化を悪とは思っていないけれど、
それにしても、思いがけないことが、通じなくなっていく。

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そういえば、
「話が通じない」体験をしている最中、

それが、「通じていない」のか、
相手が意図的に「通じさせないようにしている」のか、
しばしば、分からなくなる。

どんなにこちらの状況を話しても、
「第X条の第Y項です」の一点張りだったり、

どんなに「●が▲じゃないですか」と言っても、
「●とは?」「▲とは?」と、
こちらの言葉に「とは」と付け足した言葉を返し続けてきたり、

ああいうのは、
本当に通じていないのか、
それとも、意図的に会話を成立させまいとしているのだろうか。

いま、ここで会話が成立しなければ、
相手にも甚大なダメージが行くであろう状況であっても、
いわば「同じ船」に乗っていようとも、
通じない人には、どこまでも、通じない。

相手のシステムを理解し、
相手の言葉の意味をくみ取り、
そういった相手と、話が通じるようになる日が来るとしたら、
その時、私は、何に、変化するのだろうか。

思っていないことを書くべきだったのだろうか 

私は、文章を書くことが、
なんというか、それほど苦にならない方だと思う。

学生だった昭和時代には、
音楽はともかく、お前の文章は金になるはずだ、
などと言われたこともあった。

だが、そんな縁はほとんど繋がることなく、
年月は過ぎていった。

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インターネットというものが出現し、
ある程度普及し、
ネット上の文章が、
それなりの価値を持ち始めた時代、
一度だけ、プロとしての文章の世界に、
『繋がりかかった』ことがある。

Web上の記事のオファーであった。

ギャラの提示はない。
ないが、執筆のオファーであることに違いはなかった。

ほかのコンテンツ業界を見渡すに、
ノーギャラの仕事をいくつもこなして、
お金をもらえなくたって、やれること自体がうれしいです、
というスタンスでひたすらやっていくうちに、
お金をもらえる仕事がぽつりぽつりと舞い込み始める、
そういうものであることは理解していたので、
文章を書くこと自体がそれほど苦にならない身としては、
あそこで頑張って、食らいついていけば、
ひょっとしたら、プロのライターへの道も、
あったのかもしれないなぁ、
少なくとも、小遣い稼ぎぐらいにまでは、
なった可能性もあるなぁ、
そんな風に、今でもぼんやりと思い返す。

そのオファーは、お断りしてしまった。

お断りした理由はシンプルなもので、
オファーされた内容が、
『私が思っていないこと』
だったから。

「『●●は▲▲である』というテーマで書いてほしい」。

この『●●は▲▲である』が、私が思っていないことだったのだ。

特定を避けるため、●●と▲▲が何であったのかを直接書くことは控えるが、
たとえて言うなら、

「スピーカーケーブルは打楽器である」
「サッカーは演歌である」
「コンピューターは広葉樹である」

そんな風に、私が全くそうだと思っていないこと、便宜上その立場に立ってその主張をすることすら、いくら考えても到底できないような、そんな主張であった。

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身の回りに文筆業の方がおられないのでわからないが、
いざ仕事となれば、自分に興味がない事柄でも、
「この新人アイドルの可愛らしさについて来週までに何文字」とか、
「あの政治家をこの件で罵倒する文章を明日までに何文字」とか、
書けと言われれば書くのだろうなと、
ぼんやりとイメージはするものの、
『●●は▲▲である』という見解について、
私にはその通りだとは全く思えなかったし、
仮にそうだという設定にして、論を展開する想像力も、全く働かなかった。

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お断りしてから、
「絶対に無理なことだったのだから、お断りして正しかったのだ」という意識と、
「私はひょっとしたら、千載一遇のチャンスを逃してしまったのかもしれない」という意識が、
時折、浮かんでは消えるようになった。

絶対に無理な主張を行えば、
「あいつは絶対に無理な文章を書くことができる」と、
仕事が来るようになったのだろうか、とか、

このお断りからかなりの年月が経ってから、
『炎上マーケティング』という言葉が出回りはじめ、
ああ、無茶苦茶な主張をして、
その通りだ、と同調する無茶苦茶な人と、
間違ってる、と怒る人を呼び寄せてお金にする、
そういうやり方があったのだな、とか、

書籍や雑誌以外にも文章の仕事はたくさんあり、
本人への取材なしにインタビューしたかのような文章を作成して広報として発信したり、
編集の範囲とは到底言えないような文章の書き換えを行って正式・公式文章として他人の名義で発表し、
そのことを、書き換えたとも、嘘をついたとも、やってはいけないことをしたとも、人を傷つけているとも、まったく思いもしない、指摘されても理解できない人だけで構成されている集団・部署が、この世の中には一定の割合で遍在していることが見えてきたり、とか、

人生経験を積み、見分が広がるたびに、
あの無茶苦茶なオファーに応じて、
無茶苦茶な文章をひねり出したら、
自分の人生はどうなっていたのかな、
どの程度やってよかったと思い、
どの程度後悔したのかな、などと、
時々、思い返している。

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noteという、ネット上の自費出版のようなものが現れて、ああ、こういうものができたのか、
でももう書きたい内容思い浮かばないなぁ、まあ思い浮かんだらやってもいいかな、などと思って、
もう、何年になるだろう。

生きてるうちに書き残さなくちゃ、という文章や、
生きてるうちに書いといてくださいよ、と他人から請われるような文章は、
大抵の場合、もう書いてしまったか、
不特定多数に向けて公開するようなものではなく、
特定の人に向けてピンポイントで『書き置き』しておくものになってきた。

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とある高名な小説家さんが、
「自分は書いた小説を編集者に渡す。それで終わり。何の問題もない」と書いておられたり、
また別の高名な小説家さんは、
「自分ばっかり著者ってことで印税もらって本当に申し訳ない」
と語っておられたり、

おそらく、文章の世界も、音の世界のように多様で、
その人ごとにルールがあるものなのだろう。

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触れそうで触れることのなかった文筆の世界、
こうして、別の天体を観測するように、
遠くから眺めて、年老いていくのだろうか。

そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
わからない。

さすがにもう今から、
「思っていないこと」を書いて稼ぎたいなどとは思わないが、
運と縁とタイミングとスケジュールと、
思ってる通りの内容。
そんな仕事が、あるものなのかどうか。

わからない。
あってもいいし、まあ、この歳になると、なくたっていい。

ほぼ誰も見なかった彼岸花 

Spotifyに「Canvas」という動画機能があって、
8秒ぐらいのループ動画作品を、
PVとして流せるということで、
Spotifyはベータテストで再生回数が上がったと言っていることだし、
今まで「縦長の8秒程度のループイメージ動画」など想像もしていなかったので、
アイデアがいろいろ沸き上がり、
実際に何曲かアップロードしたことは、
このブログでご報告しました。

その後、解析を見てみると、どうも、
「ビデオが自動再生されることで、むしろスキップする人も結構多い気がする」
ように思え、確かにBGMとしてスマホで流してる人にとっては煩わしいこともあるだろうな、
自分だってテキスト読んでる横のバナー広告が動くのは耐えられないしな、と思ったり、
また実際、他のミュージシャン氏がFMラジオでしゃべってる時に、
「Spotifyで出してみるね?‥わっわっ、動画出て来ちゃった、止めないと、なんかこれこういう機能なんだよね」
などと慌ててCanvas機能を停止しているところも放送され、
たぶんこの機能は興隆せずに消えていくのだな、と思うに至りました。

舟沢が今までに作ったいくつかのCanvasも、ある日思い立って、
削除してしまうかもしれません。
(しないかもしれません。決めてないです)

で、似たような機能というと、もうなくなってしまったTwitterの「Fleet」で、
非公式にやってるツイッターで試しに動画を流してみましたが、
これもほとんどの人が見ない。
ツイートされた文章を読む人よりはるかに少ない。

で、さらに近い機能が、Facebookの「ストーリーズ」で、
今年の台風の直後、風に揺れる彼岸花がきれいに動画で撮れたので、
自分の曲のPV代わりに設定し、
Facebookの「ストーリーズ」に流してみました。
「ストーリー」は24時間で自動削除されるのですが、
24時間の間に、それを見た人は、
指折り数える程度でした。

要するにインスタなりTikTokなりをやれ、ということなのかもしれませんが、
なかなか乗り出せずにいます。
私より数十歳若い人が、
「最近の若い子にアピールするために頑張ってインスタやってる。本当に大変」
ってラジオで愚痴ってるのを聞くにつけ、
そうしゃべってる人より数十歳年上の舟沢がそれを無理してやることなのかなあ、とも思いますし、
既にあるこのブログや公式サイトの管理についても、
個人情報を集めてるわけではないのだから暗号化しなくたっていいだろうと思ってたんですが、
最近自分のサイトを開く際に、
スマホなどで「安全ではありません」などと表示されるようになってしまい、
これは印象悪いよなあと思い立ち、
「http://」を「https://」にする暗号化作業をしたのですが、
慣れない作業に半日かかってしまい、
なんかこう、注ぐ心血と咲く花のバランスが悪いな、
最近ではこういうのをコスパ悪いとかいうのだよな、
httpをhttpsにする、つまり暗号化するだけの時間を使えばインスタ開設できたかもな、
でも管理するSNSが一つ増えるのは結構きついな、
古いSNSを閉じるのもおかしいな、放置も不義理だよな、
などと思いつつ、

いろいろじたばた動いていても、
他人から見ればまるで何もしてないように見えるだろうな、
などと思っている昨今です。

動画で撮った彼岸花を、
一コマだけ静止画にして、
ここに載せておきます。

higanbana_2021.jpg
追記/補足を読む

さまざまな死、さまざまな耳 

2020の12月にハロルドバッド氏が亡くなり、
2021の6月にジョン・ハッセル氏が亡くなり、
そして2021の8月にはマリー・シェーファー氏が亡くなった。

1人のファンとして、この立て続けの喪失感は堪える。
ただただご冥福を祈るばかりだ。

舟沢はこういった人々に大きな影響を受けてきたのだけれど、
歳をとるほど、じつは“違い”の方が目立ってくる。

仕方ない。人間は全員違う。

マリー・シェーファー氏の著作「世界の調律」は、
日本で出版された80年代当時、多くの人々に読まれていたし、
舟沢も熱心に読んだ。

と同時に、この時代は、この書に記されている、
「サウンドスケープ(音風景)」という概念が指し示すものが、
猛烈な勢いで崩壊し始めた時代でもあったように思う。

皮肉なことに、この「サウンドスケープ」という概念こそが、
サウンドスケープの崩壊を助長していた――少なくとも、
当時若者であった私にはそのように見え、
何が起きているのかと、愕然と街を歩く日々であった。

東京のアート系書店に、書籍「世界の調律」が並ぶ。
音を風景としてとらえる考え方を知る。
それが、「環境音楽」と訳された、
ブライアン・イーノ氏によるアンビエント・ミュージックともからみ合い、
その場所に適した上質な音を出すことは、
先進的かつオシャレである、という風潮が広まる。
このあたりで、山手線の発車音が、
発メロ(駅メロ)に変わった。
(具体的に、発メロを作った人々と、JRの間にどのようなやり取りがあったのか、サウンドスケープについてのプレゼンがあったのかどうか、当時学生だった私には知る由もないのだけれど。)

山手線の発メロ自体はとてもよくできていたし、
駅員の感情のこもった、しゃくり上げるようなホイッスルを聞かなくて済むようになるだけでも、だいぶありがたいことではあった。

ただ、社会の大半の人々は、
音を風景としてとらえること、
どんどんうるさくなる都市の音を少しでも落ち着かせることに、
あまり理解を示さなかった。

当時、山手線の駅では、非常に静かな発メロを、
駅員さんが、連打していた

当時、まさに「過激な音楽」の領域において、
「破壊エネルギーの象徴」として使われていたサンプリング技術。
それと全く同じことを、駅員さんがやっていたのである。
静かなピアノ音の発メロを、
「カカ!カカカ!カーンカーンカ!カ!カ!カーンカーン」
と連打している駅員さんを見ると、
カッと見開いた目で駆け込み乗車していく乗客を見据え、
「もうドアを閉めます」という信号音として、
静謐な音楽を、必死で連打していたのだ。
(そうしなければ、多くの乗客はドアが閉まると認知できなかった。)

地方に行けば、
ベルを鳴らし、ホイッスルを吹き、
「発射しまぁーす!」と声を張り上げ、
発メロを鳴らしてから、ドアが閉まっていた。
発メロを鳴らす分だけ、音がむしろ増えてる。

何たる断絶、何たる分断、
この溝が埋まる日はいつになるのか、
などと思っていたが、

そんな日は来なかった。

発車用のメロディは「世界の調律」のため、
即ちサウンドスケープを公的に整えるためのものではなくなった。
(もしかしたら、初めからそのような目的は盛り込まれていなかったのかもしれない)
そうなる少し前から、既に携帯電話の普及が始まっており、
いつ誰が、どんな音楽を鳴らすかわからない時代がやってきてもいた。
今となっては、もう、世界の果てまで行ったって、純粋なサウンドスケープを聞くことは困難だろう。

(「自宅で完全にリラックスしたつもりでいても、無意識ではいつ電話が鳴るのか待ち構えてしまっているものだ」、と言ったのは確かコリン・ウィルソン氏だったと思うが、いつ誰が、どんな音楽を鳴らしだすのか、どこにいたって誰かが、何かが「通知」してくる時代がやってきた以上、もう無理だ、と思って生きていくしかないだろう。私だってちょっとスマホの操作を間違えればサイレントモードであっても音を出してしまうことがある。)

こう書いている時点でも、個人的には、発メロについて、
「せめて同じホームで鳴る曲の調はそろえませんか」とか、
「極端な転調を何度もするのはやめませんか」とか、
「せめて70dBぐらいまででまとめませんか」とか、
思ったりもするけれど、
調が違って、転調しまくって、爆音であればあるほど、
「この番線のこの電車が発車します」という信号音としての役割は果たされるので、
まあ無理だろうな、とも思うし、
こんなことを書いてて、
発メロ関連の雇用に影響でも出たら、
と経済的な心配、ためらいも感じてしまう。
現状だって、しゃくり上げるホイッスルの“生演”よりは、大抵の駅においては少しましだろうとも思うし。

「内面にサウンドスケープを持って行くしかなかろう。」
舟沢は、21世紀の初頭には、そう思っていたし、
シリーズ化も試みた。(これこれ。CDもまだあります。。)
そもそも、私にとって音楽とは、7~8割方、
内面に生じるサウンドスケープの伝達であるような気がする。

(このへん、舟沢が敬愛する、初期アンビエントの方々との違いを、年を取るごとに深く感じている。仕方ない。むしろ違ってこそ人間。)

それでも、引っ越しを終え、
大量の雑用をこなしている最中、
ブライアン・イーノ氏の「サースデイ・アフタヌーン」をかけていて、
窓の外の救急車が絶妙なタイミングで
「シーソーシーソーシーソー」と、
「サースディ・アフタヌーン」のGコードと見事にかみ合ったりすると、
「おー。サウンドスケープだー。」
と感心したりもする。

だが、それも舟沢個人の感想に過ぎない。
カナダ国立映画制作庁が作った、
マリー・シェーファー氏の短いドキュメントを見ると、
シェーファー氏の唱えるオリジナルのサウンドスケープには、
再生音は含まれないことがよくわかる。

『Listen.』

このシーンで「ん?何が鳴ってる?」と暫く耳を澄ませて、
数十秒経ってから、
「ああ、この動画の音以外の、自分の周囲の音を聞いてみろ、という意味か」と気づいた。

何十年追及しても、気づくのは数十秒遅れる。
仕方ない。

遠い場所になりつつあるから 

25年、いや26年ぐらいだったろうか、
住んでいた場所から、引っ越した。

引っ越す前、しばらくぶりに、
住んでいた場所の、屋上に出てみた。



ここからの空も、見納めか。
ここから何度、月を見つめたことだろう。

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遠いところを見つめることは、
歳をとるごとに、減っていくようだ。

なぜだろう、と思うに、
人は生れ落ちてから、ただひたすらに遠ざかり続ける、
つまり、いま私がいる、この場所こそが、
遠い場所になりつつあるから、
そんな風に、思ったりもする。

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さあ、引っ越しに伴う、
大量の雑用が、きょうも押し寄せる。