もがいた、或いはもがいてる経緯(2)  

(――前回の続きです)

音楽以外にも、
思ってもみないような雑用が大量に増え、
もみくちゃになって日々を暮らしている最中、
唐突に、Spotifyに、
「Wrapped」というものを作ろう、
今すぐ動画をアップロードしよう、という意味の画面が見えました。
(Spotifyはアーティスト側にとってUIがとてもいいのでついつい様子を見てしまうのです)

30秒以内の今年を振り返る動画を作って、
ファンに届けよう、という内容、と理解しました。
(正確に言うと、あまりにも日々が多忙なため、
仕様を熟読できず、そんな感じの内容だな、
という程度にしか理解していませんでした)

そして、異様な多忙の中、
唐突に、半日ほど、時間が空きました。

これは手持ちの動画ストックを使って、
私にとっての「今年の振り返り」と言えるような、
映像と音楽の詩を作り、
アップロードする時間ができたろう、
そんな風に思いました。

いつもは曲作りに時間のかかる舟沢ですが、
今年を過ぎれば消える仕様でしょうし、
即興的に曲を作って、
スマホで撮りだめておいた動画と合わせて、編集して、
30秒以内のものあればすぐできるだろう、
そう判断しました。

実際に、半日程度で、できました。

いざ、アップロード、となった時、
「ご確認ください」的な画面をざっと見ると、

「曲が入っていないこと」

という、思ってもみないルールが目に飛び込んできました。

曲(音楽)が入っていない、というルールがあるようです。
なるほど、自分の曲であっても著作権の問題をクリアしきれないのか、まあアルゴリズム的にそうかもな、
くっそー、せっかく作った曲がボツか、
ということは、この映像も無音では見る人に意味が通じないだろうな、
ということは動画も差し替えか、
要するに全くゼロから、音も映像も作り直しか、
全く無駄なことをしてしまった、
時間の無駄であった、

それでも、乗り掛かった船だ、やり遂げるぞ、と、
別の動画、今度は自分で撮った海の動画に、
今年Spotifyで配信し始めた「KAIHOU」のジャケットを配置したものを作り上げ、
音声トラックは昔録った波音をプロセッシングしたものを用意し、
全く別の動画を、作りました。
これも、静止画像を動画に配置するのが初めてだったので、
勝手がわからず、思いがけず時間がかかってしまい、
手早くやるつもりが、半日かかったように思います。

さて、これ以上凝っても仕方ない、時間もない、アップロードするぞ、
とアップロードを試みると、アラートが出ました。

「アスペクト比が違います」
「動画を縦長にしてください」



以前、SpotifyのCanvasという短編動画を作った際に、
手元で作っておいたテンプレートを使って、
動画を作ったのですが、
Canvasと今回の動画で、仕様が違うようです。
(あるいは舟沢がどこかで手元の設定をいじってしまった?)
出てきた仕様を見直しても、
どこが従来と違うのか、
そもそも縦長の動画を作ったのに、
なぜ「縦長の動画を作ってください」と出るのか、
さっぱりわかりません。
思ってもみないことです。

結局、仕様を読み込む羽目になったか、くっそー、
と読み始めて、
思ってもみない、別のルールを見つけました。

「画像が含まれていないこと」

ファンに向けて感謝を伝える「音と映像の詩」ではダメで、
ジャケット画像を置いてもたぶんダメ、
ファンに向けて「しゃべってるだけの動画」でなければならない、らしい。

つまり、アスペクト比(縦横比)、画面のピクセル数など、
合ってるはずなのに「合ってない」とアラートが出る原因を探り、突き止め、修正し、
アップロード可能になったとしても、
その「音と映像の詩」は、
ルール違反として、承認されない可能性が高い。

ここまでで、トータルで1日半ぐらいかかってます。
最初に思い描いたスケジュールイメージの3~4倍ぐらいかかってます。

――諦めました。

もう時間がありません。
ムキになってアップロードしても、承認される可能性は低いです。

30秒に満たない「音と映像の詩」、
2つ作って、2つともボツです。

動画のスクリーンショットだけ、
ここにそっと掲載しておきます。

sukusyo_tubaki_2022.jpg

sukusyo_umi_2022.jpg

もがいた、或いはもがいてる経緯(1) 

元々、「KAIHOU」というアルバムは、
「KAIHOU」1曲で1アルバムとして、
Bandcampで配信をスタートしました。
それを、SpotifyAppleMusicなど、
他のサイトでも配信しよう、と思うに至りました。

既に、「」や「底の方は少し固い」など、
長い1曲で1アルバム、というのは経験しているので、
問題なく行けるだろう、と思っていたのです。

それが、今回やってみると、うまくいかない。
読めない英語を無理やり読んでみると、
「1曲1アルバムだと、アルバムとして承認しない配信サイトがある」
ということのようでした。
(以前はありませんでした。どの配信サービスかはわかりません。)
EP・シングルとしてなら出せるようにも見えましたが、
1曲50分を「シングル」と世界中の配信サイトが承認するか、
読めない英語を読んでも、はっきりしませんでした。
それに、もう「アルバム配信」としての料金も、支払ってしまっています。
英語サイトでキャンセルする方法も見つけられません。

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十年以上、「アルバムらしいアルバムを作れそうで作れない」日々が続いています。
思い浮かべ、実際にレコーディングし、
トータルにまとめ上げる前に、
時代が変わってしまうのです。

納得のいくテイクが取れる前に、
そのシンセが壊れてしまうこともある。

納得のいくミキシングができる前に、
ソフトのヴァージョンが変わってしまうこともある。

納得のいく曲順が思い浮かぶ前に、
シャッフル再生が当たり前になってしまう。

もう10年以上、そんな風にもがいています。

そんな中、
この曲は、もうこのシンセサイザーのこの音色と、
このエフェクターのこの設定でしか、
録音物として納得のいくものはできないのではないか、
そして、このシンセサイザーも、このエフェクターも、
もうすぐ壊れてしまうのではないか、
そんな風に思って、トラックだけ録っておいたのが、
「Morning of Compensation(補償の朝)」でした。
この曲は、記憶では2004/8/8に、ライブ用のコンパクトな鍵盤で演奏したのが初演だろうと思います。
それを、PCのファイル日付を見ると、おそらくは2015~6頃にオーディオトラックとして残している。
MIDIトラックも残っているので、
納得がいくまでMIDIレコーディングで手弾きし、
そのベロシティを納得がいくまで微調整し、
そのデータで再度シンセサイザーを鳴らし、
それをオーディオトラックとして取り込んでいたようです。

その、「Morning of Compensation」が、
全く違う曲調であるにもかかわらず、
ほぼテーマとしては「KAIHOU」と同じであること、
「KAIHOU」のアルバムの最後に付け加えても、
「KAIHOU」というアルバムとして成立することに、
気づきました。

それから、2022時点のテクノロジーを駆使して、
新たなオーディオトラックを加え、ミキシングとマスタリングをし、
「KAIHOU」の2曲目としても成立するように整え切って、
アルバム「KAIHOU」を2曲にして、
配信の申請を出しました。

それでやっと配信が承認されました。
承認された直後、Bandcampの方にも2曲目を加え、揃えた次第です。

人生は思ってもみないことの連続です。
これは何歳になってもそう、というか、
経験を積めば積むほど、思ってもみないことは、
むしろ増えてくるような気さえします。
まさに、人生後半の「補償」ですね。

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ついでに書きますと、
Bandcampの「Archetype Drone Vol​.​17」ですが、今のところ、似たような手法で他でも配信、ということは考えていません。

元々「KAIHOU」をストリーミング配信しようと思ったのは、
Bandcampで「0円以上」と価格設定していたからで、
「Archetype Drone Vol​.​17」はしっかりめの値段を付けている以上、
他の配信でサブスク化するのは、Bandcampで購入いただいた方に対して、なんだか申し訳なく感じるのです。
(逆に、かなり高名なミュージシャンの方でも、CD化された過去作を次々と自らBandcampに有料設定でアップする方もおられるので、考えすぎなのかなぁ、と思うこともありますし、何かいいアイデアが思い浮かべば、やらせていただくかもしれません。今のところ、やる予定はない、ということです。)

「KAIHOU」のサブスク配信以降、驚くほどBandcampのアクセスが減りましたので、
商業戦略としてはどうだったんだ、と自問することもありますが、
答えは出ないまま、大量の雑用に押し流されていきます。

作曲、編曲、音色作り、ミキシング、マスタリング、
矛盾するいくつものものごとを同時にこなしていても、
知らない間にどこかの国のどこかのサイトが「アルバム」の定義を変えているとか、
こっちで発表するとあっちのサイトで買う人が減るとか、
想像力の及ばない出来事は、減りません。

(続きます)

------------ 以下告知 ------------

Mushio Funazawa 「KAIHOU」
Bandcamp
Spotify
AppleMusic

神々から最も遠い日々 

大仰なタイトルですが、空き時間に書く駄文です。

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コロナ禍以降か、引っ越し以降かわかりませんが、最近、

いま私は、神々から最も遠ざかった日々を過ごしている

という実感を感じるようになりました。

今まで生きてきた中で、
神的なるもの、霊的なるものから、
最も遠ざかっている、
という実感です。

これがいいことかどうか、わかりません。
これがずっと続くのかどうか、わかりません。
これが、死の瞬間まで、
果てしなく遠ざかり続けるのか、
多少なりとも、別の形での“再会”があるのか、
それも、わかりません。

“帰っていく”、“再会する”、というような本は、
今まで沢山読んだはずなのですが。

ゲーテ「ファウスト」なんか、
若い頃にわけもわからず直観的に面白がり、
大人になってからは、晩年のファウストが
干拓事業のようなことをやっていることに対して、
何となく「そんなもんかな」程度に思っていたのですが。

神的なるもの・霊的なるものと、
認識を通して“再会”することが、
本人に意識されるものなのかどうか。
やはり、本人の実感としては、
果てしなく遠ざかっていくものではないのか。
結局、よくわからずにいます。

と同時に、不思議なことに、

いま私は、人生最良の時を過ごしている

とも、しばしば思うようにもなりました。

この二つが、自分の中で、
全く折り合いがつかずにいます。

一応、両方とも、「何故そう感じるのか」は、
自分に対しては、ある程度は説明できるのです。
引っ越しとリモートワークで孤立に近い状態になりましたし、
でも新居ですし、
他にもまあいろいろとあって、
自分の人生が、ある種の“日蝕”のような状態にあることと、
ある種の豊かさを享受しているということは、
両方、説明できます。

物質的な世界に、
人間は果てしなく、死の瞬間まで、下降し続けるのか。
どこかで、折り返し地点を通るのか。
その折り返し地点は、
自分で意識することができるものなのか。

晩年のヘルマン・ヘッセから晩年の種田山頭火まで、
その辺は書いてそうで書いてない、というか、
書いてあっても舟沢がうまく読めていないのかもしれませんが。

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と、ここまで書いて、ふと、
こういった事柄に対して日頃イメージしているのと、
別の“図”が思い浮かびました。

こういった事柄に対して、
日頃舟沢が思い浮かべているのは、
神秘学で多用する「周期」の円。
遠ざかっている二つの円が中央で交わり、
再び遠ざかりはじめ、やがて完全に遠ざかる。
(非常によく見る図であるにも関わらず、画像を検索できないのですが)

これに対して、上記を書いていて唐突に思い浮かんだのは、
やはり頻繁に用いられる、
何かが大地に下降し、衝突している図。
上方から滝のようなものが下降し、
下方で衝突し、しぶきをあげている図。
(これもしょっちゅう見かけるのですが、いざ検索すると画像が出てこないです)

要するに、インパルスが下降し続け、下降し切り、衝突し、
粉砕される、飛び散る、
そういう状態に自分がある、ということかもしれません。

私は、地上で粉砕された、その飛沫だろうか。
そう考えてみると、
そんな気もしますし、
ちょっと違うような気もします。

有名な「千と千尋の神隠し」の歌詞にも、
似たような文句が出てきますので、
なんだ、こいつはこんなこともわかってなかったのか、
今わかったのかよ、と言われれば、
恐れ入るしかないのですが。

ただ、このイメージと、
ニーチェの言う「永劫回帰」がどういう関係にあるのか。
こちらは、とんと、分からずにおります。
チック・コリアの「リターン・トゥ・フォーエバー」というのは、
ニーチェからの言葉でしょうけれど、
私(たち)は、こういう人生を歩んで、
生きているうちに、どこかに、
先祖返りも、退行もすることなく、
回帰していくのでしょうか。

この辺り、もうちょっと歳を取ったら、
多少なりとも分かったような気になれるのかもしれません。

なれないかも、しれません。
追記/補足を読む

赤潮、クラゲ、地球と宇宙、それから人生の概観 

赤潮の海にクラゲが漂う。
その流動する海を写真に撮ると、
意外にも、石のような印象に変わる。

プランクトンでスープのようになった水は石のように見えるし、
クラゲはその中の化石のように見える。

akasiokurage2022_1.jpg

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R・シュタイナーの言う、「月紀」と「レムリア期」、
この2種類の時代が、
何度読んでもイメージだぶって、
混同してしまう。

片方は「今よりも一つ前の宇宙の状態」、
もう片方は「アトランティスより一つ前の文化」。
いくら読んでもイメージ化は難しいし、
この全く違う2つの時期は「似ている」という記述も出てくる。

生き物がスープのように入り混じって生きている時期。
そんな風にイメージはする。
詳しい人からすればさぞ粗雑なイメージなのだろうけれど、
私にはそれ以上詳細なイメージは抱くことができないし、
ネットを検索してもまずまともな画像は出てこない。

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赤潮を写真に撮ると化石みたいになるな、
赤潮って下に沈んで、何万年かしたら化石になるのかな、
そういえば月紀とレムリア期ってイメージできないな、
などと思って、眠りに就いて、翌朝、

「なんという長い時間を生きたのだろう」

という愕然たる思いで目覚めたことがある。

とうとう成長しなかったある種の能力、
とうとう改善しなかったある種の関係、
分かり合おうとした年月、
分かり合うことをとうとう諦めて、
ひたすら距離を離し続けた年月、
努力と辛苦だけがあって、
殆ど何一つ前に進まなかったあまたのものごと、

睡眠中、それも夢の中ではなく熟睡中に、
この、『人生を概観したような体験』を持って、
愕然と目覚めたことがある。

今までの人生と、
赤潮と、クラゲと、
月紀と、レムリア期が、
どう繋がって、この体験が生じたのか、
自分でも、よくわからない。

長い時間を概観するということ。

akasiokurage2022_2.jpg

通じるようになった時に訪れる変化 

喫茶店にて。

メニューに『ホットティー(レモンorミルク)』とある。

私「ホットレモンティーください」
店「ホットですかアイスですか?」
私「(?)ホット・レモン・ティーください」
店「レモンおつけしますか?」
私「‥ホット、レモン、ティーをください。」
店「‥ブレンドでよろしかったですか?」

なぜ通じない?
―と、1か月以上考えて、分かってきた。
これはたぶん、世の中が、デジタル化したからだ。

そのお店に行くと、
「ホットティーください」や、
「アイスティーください」は、通じる。
通じた後に、「レモンかミルクお付けしますか?」と聞いてくる。

つまり、紅茶について、まず、
「ホットティー」と「アイスティー」のデジタルな分岐があって、
それぞれの階層の下に、「レモン」「ミルク」の分岐があるわけだ。
だから、最初に「ホット・レモン・ティー」と言われても、
そんなメニューは存在しないから、混乱してしまうのだろう。
レジの画面は客側からは見えないが、
おそらく、レジの画面には「ホットティー」「アイスティー」が見えているのではないか。

最近では、
「ホットティーください」
「レモンかミルクお付けしますか」
「レモンで」
と、「ホットティー」「レモンティー」を最初に言い、
レモンかミルクは相手が聞くまで待つようになった。
相手のシステムを私が理解し、私が合わせるようになったのだ。

この会話が成立するようになった、
この分岐に私が対応できるようになった、ということは、
私もまたひとつ、「デジタル化した」、ということになる。
私の話し方が、デジタルに適応し、
私の側が、変化したわけだ。

昭和の銭湯のように、支払いの際に、
「はい260万円。」などと言ってくるのも、
アナログすぎてずいぶん困惑したものなので、
デジタル化を悪とは思っていないけれど、
それにしても、思いがけないことが、通じなくなっていく。

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そういえば、
「話が通じない」体験をしている最中、

それが、「通じていない」のか、
相手が意図的に「通じさせないようにしている」のか、
しばしば、分からなくなる。

どんなにこちらの状況を話しても、
「第X条の第Y項です」の一点張りだったり、

どんなに「●が▲じゃないですか」と言っても、
「●とは?」「▲とは?」と、
こちらの言葉に「とは」と付け足した言葉を返し続けてきたり、

ああいうのは、
本当に通じていないのか、
それとも、意図的に会話を成立させまいとしているのだろうか。

いま、ここで会話が成立しなければ、
相手にも甚大なダメージが行くであろう状況であっても、
いわば「同じ船」に乗っていようとも、
通じない人には、どこまでも、通じない。

相手のシステムを理解し、
相手の言葉の意味をくみ取り、
そういった相手と、話が通じるようになる日が来るとしたら、
その時、私は、何に、変化するのだろうか。