上野再行 

自分がこころ動いた「無本覚心坐像」と「闡提正具像」をもう一度見たいのと、それらの画像がネットに転がってなかったので、所収されているパンフレットを購入したいのとで、先日行った「京都五山 禅の文化展」に再び。

二度目なのでどこが自分好みじゃないかも判っているので、一枚一枚にぎっちり集中しないぶん、気に入ったものをじっくり見ることもできたし、気力を使い果たさないので前回こころが動かなかったものの中で今回こころが動いた作品もあった。「出山釈迦図」という画で、なんでも修行しに山に入った釈迦が数年後悟りを得られず山を降りてきたところだそうだ。
しずかな、とてもしずかな、ややうなだれた、若い釈迦。
しかし薄く、でもはっきりと、巨大な光輪が顕われはじめている。
なぜか判らないが、私は仏像(釈迦像)にこころが動いたことがない。菩薩像、羅漢像などで感動したことはあるのだが。
しかしあらためて見るこの釈迦図にはこころに響くものがあった。まだ「ほとけ」になるまえの釈迦だからだろうか。
そういえば、キリスト像でもこころ動いたものは非常に限られている。グリューネヴァルト、フリードリッヒ。そのぐらいしか今ちょっと思い浮かばない。

まぁ、「目の前にあっても遠すぎて見えない」ものはよくある。

上野に話を戻す。
「禅の文化展」は上野の東京国立博物館―平成館で開催している。
今回は全作品に全精力を傾けなかったので気力体力がだいぶ残ったことと、ネットで調べて「あ。漆器の展覧やってる。」と思っていたので、“本館”にも足を踏み入れた。(最近、漆器がマイブームだったのだ)
漆器の部屋だけ見て帰ろうと思ってたんだが、入って驚いたのは、仏像、日本画、何から何まで「禅の文化展」より数段所蔵品展示のほうが凄いこと。
禅の展覧を見たことに後悔もなにもありはしないが、先週からの俺の上野での労苦はなんだったんだというくらい、こっちが凄い。
体力も時間も残り少なかったので、あまり本気で見てたら大変なことになると思い、なるべく立ち止まらないようにして漆器の部屋へ。その部屋だけじっくり見て帰ってきた。
しかし「あまり本気で見ないように」と自分に言い聞かせながら通り過ぎていった中でも、特に衝撃だったのは、日本刀の展示。あの種の美しさは自分の語彙に無かったもので、全く自我に融合されない。今も脳裏に異物として燦然とその美が輝いている。
結局本館1階を漆器だけ集中して見て、あとは立ち止まらないようにして、
2階を見ずに博物館をあとにした。
―あれだけの質と量のものが2階にもあるのか。

ご本人はお忘れかもしれないが、友人の彫刻家、藤井健仁氏が、かつて私に「大規模な展覧会ってのは通うものだ」と教えてくれた事がある。
その時は「そうか。美術家にとって展覧会は一回見に行くものじゃなくて通い詰めるものなのか」と、ひとごとのように感心していたが、
意味がわかった。

‥なぁに。相手は国立博物館だ。
焦る必要はない。
時間があるとき、気が向いたとき、
じっくり通うさ。

ハードウェア 

時間は速い。私は遅い。
おまけに私は偏狭である。


実は、特に無理な作業をしなくても、
しっかり覚えてしっかり使いこなせば、
大抵の音楽を一台でまかなえるシンセというのは、
10年以上前から存在している。
買わずにいるのは、色に耐えられないから。
テカテカのシルバーの筐体にピッカピカの液晶を見ながら、
音楽なんか作れるもんか。そう思って買わずにいた。
そうやってじわじわ取り残されてきた。
最近じゃ世間ではキーボードは鍵盤としてだけ使って、
シンセはパソコン内のソフトを使うのが一般になったようだが、
これにも私は適応できていない。
昔は「10年も使わずに壊れるシンセなんか信用できない」
と思っていたが、最近じゃ、
「10年壊れない程度じゃ信用できない」
と思想がエスカレートしている。
一生使うつもりなのだ。だって楽器だもん。

そんなところに、MOTIF XS を見て、
心が揺らぐ。
色に惚れた。
しかし、使いこなせるまで何年かかるだろうか。
それとも大半のミュージシャンのように、
“使いこなさない”、
つまりプリセットをちょっとエディットする程度でやっていくのか。
案ずるより買うが易しか、
案ずるより無視して旧来のシステムに打ち込むが吉か。

ちなみに、操作性の良さを知った上で、
同時発音数や音のキャラクターの理由で、
V-SY○THは念頭に無いし、
デジタルのツマミのガリはアナログガリより恐ろしいという理由で、
RA○IASは怖くて買えない。

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様々な符合、シンクロニシティの一環としての、
とあるインスピレーションがあり、
それの素材集めに、久々にフィールドレコーディング。
ポータブルMDのガム電池が液漏れしてて、
外付け単3かACじゃなきゃ動かなくなってる。
なんとか録音すべきものは録音したが、
まだパソコンに録り込むには時間が必要だ。
様々なアナログ加工を考えているから。

いずれにせよ、MDでのフィールドレコーディングは
これを最後にしたいものだ。
MDは正直新たに買いたくない。
でも、舞台音楽で「MD納品」ってのがあるから、
このMDを大事に使って行きたい。
つまり、家に安置しときたいのだ。

それにしても、ボイスレコーダー全盛時代には
「なんでないんだぁぁぁぁ」と頭を抱えてた、
音楽用シリコンレコーダー、
結構な種類が出揃ってきている。
これだけ揃うと逆に悩む。
ネットを徘徊しても、各機種一長一短のようだ。
MD時代に録りたい音はあらかた録ってしまったので、
もう使用頻度は少ないだろう。
買わないかもしれない。
必要になったら購入を考える。
その時はEDIROLとZOOM、どっちがいいんだろう。
それとも必要になる頃には他社がもっといいのを出しているか。

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いまだにPC主体の曲作りに移行できない。
ハードウェア・シンセへの執着。
となると、もう今後必要な人は限られてくるだろうから、
買えるうちにSPXを買っといたほうがいいのかもしれない。
なんとなく買うのに気が引けるのは、
本当は私はA2の後継機が欲しいから。
調べたら、ああいった自由で複雑なエフェクターは、
ほとんどギター用に特化してしまったらしい。
ラックマウントのステレオインは永久に出ないかもしれない。
(ステレオイメージを崩さない/崩し具合を調節できるディストーションがあれば素晴らしいことだと思うし、コンプとリバーヴの奇跡の調合は一台にセーブしとく以外にない。)

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私はシンセを買い換えるべきか。
私はエフェクターを買うべきか。
私はシリコンレコーダーを買うべきか。

案ずるより買うが易しか。
案ずるより旧来システムに定住するが吉か。

考えているうちに時は過ぎていく。
買う頃には状況が変わっている。
そんなことにならないようにと熟考せずに買うと、
いくら使い込んでも自分の音が出ないか、
自分の手足のように使えるようになる前に壊れるか。
買って、あがいて、売り払う。これを何台も経験した。

…うぅむ。

はぐれもん 

座禅。
座るたびに発見がある。
今のところ、
「座禅とは、外界、内界の境界を開いてコンプレックス(情動的複合体)を自我に流入させ、それにうろたえない内的平静を形成する」修行、
と捉えているが、
われながらいかにも初心者らしいし、
実際に体験することとも随分違う。
つまり、未経験のことを判断してもしょうがない。

最初の頃は、いくら考えても根源のわからない、
全く意味不明な幻覚があった。
「そういうのを妄想ってゆうの。禅ではね。」
だそうだ。
前回は、自分は「ろうそく」だ、という実感に満たされた。
「あとどれぐらい蝋は残っているだろう?」とか、
「今までどれぐらい燃えてきたのだろう?」とか、
そういう、「人生を蝋燭に例える」思考が、
一切通用しない。
ただただ、「おれ、ろうそくだ。」という実感だけがあり、
それ以上にもそれ以下にもならない。
「あ。そうそう。人間ってそうろくみたいになってんの。
アタマから気が出てて、血(けつ)が下へ行っててね。」
だそうだ。

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以前書いたが、私は、大抵の音楽シーンに、所属したくても所属できない。そんなに特殊なことをやってるとは思えないのだが、私に親近感を覚えてくれる音楽家は殆どいない。
(ここには書かないが、私は最近、職業音楽においても、“シーン”という考えからはぶっ飛んだところで評価されていることを知る)
考えにしてもそうで、私の敬愛する画家には統一性がないなぁ、と思ってたらその画家達の共通項を論じた本があるそうだが、絶版。オークション出品待ちだが、無茶苦茶高値で取引されてるらしい。
つまり油絵に関しては、私に近い思想・感性をお持ちの方が僅かながらいて、再販する(商売になる)ほどじゃないけど熱心であるらしい。(そういう人が私の音楽を好いてくださるかどうか全く未知数だし、探しようもないし、宣伝もしようがないけれど。)
禅にしてもそう。先日書いた、魂を揺さぶる一枚の掛軸と一体の木像は、それほど美術価値が認められていないらしい。そして、鍼灸やカイロプラクティックを生業とする禅僧に、改築したアパートの一室で、座禅を教わっている。
そんなこんなで、私ゃ一体なんなんだ、といぶかしく思っている。

今日の座禅で。
「はぐれもん」
という言葉が浮かんだ。
どこへ行ってもはぐれもん。
どうあがいたってはぐれもん。
おまえはどこまでもはぐれもん。
それがおまえ。

なんかすごく納得したのだけれど、
それを師に言ったら、それを尊重してくれつつも、
「アタマに浮かぶのはねぇ。だいたい妄想だからねぇ。
ふつう“わかる”時はもっと下のほうに理解がくるのよ」
だそうだ。
あと、敬愛する山頭火みたいにひたすら歩くのとは違う、
呼吸数と歩幅が決まってる「徒歩禅」も習ってるんだが、
その呼吸のときに、散々練習した「自立訓練」「丹田呼吸」のヴァリエーションを取り入れてやってみたんだが、全然「効いてる」感じがしない。
「わかるまで随分かかったんだけどねー。
禅って、丹田とかチャクラとかと違うのよー。」
だそうだ。
この先はディープ過ぎて記述省略。
ただ一つだけ紹介。
「これから先も、壁の向こうが透けて見えるとか、いろーんなことを経験していくと思うけど、全部捕われないことね。捕らわれちゃうと、ばぁーっ、と“我”が果てしなくおっきくなっちゃって収拾がつかなくなるからね。」
だそうだ。
“マナ人格”のことだろう。

「この歳になって師を得たことが嬉しいです。
それもはぐれもんにふさわしくはぐれもんの師を得て」と言ったら、
呵呵大笑なさっていた。

シンクロニシティ、禅、崇高な画家達、坐禅 

この数ヶ月、シンクロニシティの洪水である。
複雑に符合していくアレンジメント。
一つひとつの内面/外面の出来事を列挙していくこともできない。
一々書いていたら一日の出来事より書いてる時間が長くなるかもしれないくらいだ。

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様々な符合を鑑み、思うところあって、早起きして、
上野の博物館に「京都五山 禅の文化展」を見に行く。
5年ぶりか10年ぶりか、15年ぶりかの上野。
近年は殆ど行動パターンが決まっていたこともあって、
デジカメもめぼしいものは概ね撮ってしまったなぁ、と思っていたので、
荷物を重くしたくなかったけれどデジカメを持参。
上野公園で樹を数枚、噴水を数枚撮ったところで、
電池切れ。
デジカメ、GJ。またひとつ「機械運の悪さ」を自慢できるネタをありがとう。

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あまり史実的な知識を持たないまま行ったので、
正直かなり驚いた部分もあった。
なんというか、初期の禅の、
権威志向と拡大志向と政治志向とブランド志向。

そんなんだったのかよ、と少々呆れたが、
時代的にそれはしょうがない、と後で複数の人に言われた。

「見る目がない」といわれればそれまでというか、
むしろ「見る目がない奴」と思ってもらったほうが安全かもしれないが、
一部、私が見るに、かなり“芸術性の低いもの”も展示されている。
たとえば、ごく普通の仏画なのに、
眼だけが福笑いのように、アサッテのほうを見てるのがある。
なんだこれ、と説明を読むと、仏画を描いてから、
最晩年の一番位の高い僧侶に眼を書き入れてもらったという。
(想像だが、もう起き上がれないその僧の枕元に仏画を持ってって、筆を手に持たせたのではないか)
なんか、そういうことするよりちゃんとした仏画を完成させるほうが大事だろ、と思うのだが、当時の人々にとっては“あの僧が眼を入れた”というブランドのほうが有り難かったのか、それとも“権力の力学”みたいなものでそうなったのか。
よく判らないが、当時の宗教芸術には芸術性を損なってもかまわないほど重要なものがあったみたいだ。

もちろん“そんなの”ばかりではなく、立派なものも沢山あったのだが、
中でも、「こっ‥これはっ…」と目を瞠る作品が2点。
一つは木像、一つは画像(掛軸)。
どちらも禅僧をえがいたもの。
その禅僧が凄いのか、書いた絵師、仏師が凄いのか、判らない。
あまりにも深い印象だったので、説明書きをメモった。

木像:
無本覚心
真言密教、天台密教にも通じ、熊野に入るなど神道にも接触。曹洞宗の僧たちとも交流あり。

掛軸:
闡提正具(せんだいしょうぐ)
隠遁を好む、とある。派手な法衣も嫌ったらしい。

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全体ざっとを見ただけで2時間。脚痛い。
もう少し居られる時間があったが、千葉に戻ることにする。
帰りにパンフレット買おうかと思ったが、
魂の奥の奥まで揺さぶられたのは上記2点だけなので、
どうせ有名なものなんだろうからネットで画像でも落とせるだろう、
と思って買わずに帰ったら、その作品画像、
みつからない。
どうやら私が感動した2点は、そんなに有名な作品じゃなかったらしい。
確かに「この時代の代表作」ってのは、他に紹介されてあった。(それもいいな、とは思ったけど‥)
‥うぐぅ。
時間があれば来週もう一回見に行ったろか‥

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上野を出て、千葉の歯医者へ行く途中、本屋に寄る。
そしたら、あれだけ探して、結局輸入モノを買った、
C・D・フリードリッヒのタッシェンの画集、
翻訳版が出てる。
画集だから文章のためだけに買いなおすかどうか、
と悩んだが、結局経歴を立ち読みするだけにした。
(タッシェン社さん、紀○○屋さん、ごめんなさい)
経歴を立ち読みして思ったことは、
彼は、あの圧倒的な孤独を、
いつの日にか氷解できると、
かなり永い間信じていたらしい。
そして晩年に、自分の作品が非常に限られた人にしか受け入れられないと悟ってから、病に倒れ、急速に衰え、とても惨めな晩年であったらしい。
かわいそうに。
他人事ではない。

ちなみに、タッシェン社から知らないうちにマーク・ロスコの画集も出ていた。
こちらは我が家にでっかいのが2冊あるのでパラパラめくる程度にした。
彼の晩年の惨めさと死に方は知っている。
かわいそうに。
他人事ではない。

いつも思うんだが、私は音楽をやっているにも関わらず、
いつも画家のロスコとフリードリッヒを超えたいと願っている。
彼らの先があるはずだ。
いや、彼らの先を実現した多くの先人がいる。
前のブログに書いた、「中間地点の先」。
ユングに言わせると、この地点を越えるときに起こることは、
全く記述不可能なんだそうだ。

――本屋に寄ると、自動的に河合隼雄先生のコーナーを見に行ってしまう。
そうか。もう新刊は出ないんだな。
ご冥福をお祈りします。
ただ、私としては、唯一、
もしもお話する機会があったなら、
「関西には文化があるけど、関東には無い
という言葉の真意を問うてみたかった。
(何度か口になさっているはずだが、白洲正子氏との対談が有名か)

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私の腰痛を最も快復させることに成功した鍼灸師/カイロプラクター/禅僧。
以前から、禅についてちまちまと質問していたので、
「なんか興味がある」と思ってくれていたのだろう。
父が死去した折、私を治療しながら、この禅師は静かに言った。
「‥こんど、座る?」
この人、私をどうってことのないアパートに案内した。
そのアパートに、表札の無い部屋があった。
その、どうってことのないアパートのどうってことのないドアを開けると、
禅堂だった。
改築したのだそうだ。
以来、月に一回、治療の一時間前に赴き、
その部屋で坐禅を教わっている。
治療は月一ペースだが、
坐禅は明日から毎週伺おうと思っている。

中間地点の先 

中間地点を過ぎた後、
私はどこを歩むべきか。
永い間、考えてきた。
未だに、わからない。

ここで言う「中間地点」とは、
ヘッセならシッダールタを著す近辺の手記にあり、
キム・ジハ氏なら獄中の手記にあり、
カントルなら「ゼロ=全ては一触即発」と呼んだ、
あの極限状態を指す。
YMOなら「テクノデリック」の辺りか。

多くの芸術家が、
中間地点に到達して死ぬ。
中間地点の先へ行くときに、大きく作風を変えて、つまらなくなる。
中間地点の状態を維持しつつ、ゆっくりとミイラ化していく人も多い。
中間地点を過ぎてから花開いた人は、とても少ない。

こまったことに、
そしてあたりまえなことに、
時はうつろう。

myspaceをやってて「はっ」と気付いたこと。
音符について全く考えずに、オーディオを主体に音楽する人の多さと、質の高さ。

イーノの「オン・ランド」を聴いたとき、
これ以上のものは永久に現れないと思っていたし、
D・シルヴィアンとH・チューカイのコラボを聴いて、
これはちょっとやりすぎなんじゃないか、なんて思っていた。

こういった「私の原点」とも呼びうるアルバムの多くが、
今、初心者がなんとなく作ったものと大して変わらない。
(もちろん、私は私の音楽しか作れない。幸か不幸か)

「私は過去を放棄すべきかどうか。」

これは非常に多くの音楽家が苦しむ課題である。
本人が変えるつもりが無くても、たとえば、
「もう磁気テープが販売されなくなった、
だからHD内でミックスするようになった、
そしたらアナログミキサーを通さないので小さい音がにじまない、
だから必然的にエコー量も楽器数も減った」、
‥と仰る非常に有名な音楽家さんのニュー・アルバムが、
ファンの袋叩きに遭っている。

私はここ数日、
1オクターヴを10等分する音階を作っていた。
以前一度MICROWAVEというシンセで出すことに成功したが、
手放してから、あまりの設定の大変さにしり込みしていたのだ。
TX802(FM音源)で、テンプレートが完成した(と思う。)
ふと気付けば、ソフト・サンプラーというのは、
鍵盤ごとにサンプルを持ってたりするので、
このテンプレートを基に、
様々な“生楽器”を1オクターブ10等分の音律にできる。
でも、
やり遂げられるかどうかわからない。
やり遂げられたとして、気に入った楽器にできるかどうか判らない。
できたとして、その音にあった曲ができるかわからない。
できたとして、それがレコーディングできるかどうかわからない。
できたとして、それをCD化できるかどうかわからない。
できたとして、お店は置いてくださるだろうか。
どのくらいの方々が買ってくださるのか。
そもそも、それは何年先なのか。

私は途方も無く無駄なことをしていないか。
「楽しければいいじゃん」という人もいるが、
私にとって音楽は楽しいものなのだろうか。
判らない。

私は私の過去や私の思考を放棄すべきだろうか。
判らない。
私はどこへ向かったらいいんだ。

毎月、鍼灸師(禅僧)に治療をしていただく際、
最近は1時間早く伺って、
座禅をさせていただいている。
先日、「治療のときだけじゃなく、もうちょっとこまめに来てみては」
みたいなことを仰っていた。

うむ。
座禅して、「自分に訊いてみる」というのもいいかもしれない。
しかし、そういえば、その禅僧さん、
「そーだねー、あぁ、座るってのはこういうことかな?って、
座り方が判るのに30年くらいかかったかねー」
って言ってたな。
ここでも「無駄かも」と「いやとにかく前へ」の狭間、か。

時間があれば、「ゲーテ的世界観の認識論要綱(シュタイナー)」とか、
じっくり読み直してみたい。ヒントがきっと書いてある。
そう思って本棚を見上げる。
まだ読んでない本が山と積まれている。
本買い過ぎだ。

個室?密室? 

このブログを「別室」、
ホームページを「本室」、
myspaceを「海外別室」と呼んでいますが、
一ヶ月ほど前から、じつは、

Mixiを始めています。

どういう位置づけにしようかと考えながらの参入ですが、
いまのところ、さらにプライベートな、
さらに陰気なことを書いてます。

場所は‥探してください。
見つけたら、お気軽にメッセージをどうぞ。
(逆に、気軽じゃないメッセージはなるべくご遠慮願いたく存じます。「やる気あんなら、今日中に3曲デモ作ってみろよ。プロなんだろ?」とか、そういうプロデューサー様は正直ちょっとつらいです。)

天使のはやにえの為のファンファーレ 

myspaceで Marco Lucchi という人が、
「なんか粋なものくれ」と何度も言うので、
昔知人がやっていた「天使のはやにえ」というホームページにインスピレーションを得て作った、
「天使のはやにえの為のファンファーレ」
という曲を引っ張り出し、
8ビットだったのでノイズが曲の一部になるようにリマスターして、
送信しました。

もうアップロードされてます。
http://www.musichevirtuali.org/music/the_iki/index.html
↑このページのずうっと下のほうに、
Mushio FUNAZAWA - Fanfare for "Angel Sacrifice".mp3
として見えるはずです。
the "iki" project なのだそうですが‥‥
追記/補足を読む

写真提供(見えないかも) 

inthefray magazine という英語のオンラインマガジンに、写真を提供しました。
詩人さんが3つの詩を書き、私が写真を3つ提供する、という趣向です。
が、日本からだと見えないケースがかなりあるようです。
原因は当方にも向こうの編集者諸氏にも不明ですが、Firefox,Safariでは概ね見えるようです。
というわけで、見えなかったらご容赦ください。

http://inthefray.org/content/view/2337/29/

尚、サイズはもちろん、コントラストや色味も結構向こうの好みで変更されてます‥‥(ですので、見えなくてもとても残念というほどのものでもありません‥)