奥行き
たとえば、ぼやっと聴いてるありふれた曲を、
ふと鍵盤でコードを確かめてみる。
途端に意味が判らなくなる。
CからAmに移行しているのではなく、
CからAmに転調しているのだと気付くだけでも、
何十分もかかる。
マイクの種類や位置、EQのポイント、シンセの機種まで、
その曲の“全て”を解析しようとしても、
まず無理である。
「この曲はどのような精神を礎に、何を目指して作られたか」も、
殆どの場合、理解や共有は極めて難しい。
「もしも本当に一枚の絵画を理解しようと思うなら、その一枚の画を見つめ続けて、疲れ果てて、椅子が必要になるまで見つめ続けなければならない」、
と言ったのはクレーだったろうか。忘れてしまった。
父の遺句集が仕上がって、読み始めて、3ヶ月ほど経った。
俳句の句集だ。ぼやっと読めば30分もかからない。
しかしひとたび、「しっかり読もう」と決意したなら、
驚くべき奥行きに出くわすことになる。
俳句には広辞苑にも載ってない漢字や単語が多用されるし、
ぼやっとイメージで読んでいたところを今一度調べると、
イメージと違っていたことが判ったりする。
ごく基本的な単語の意味の調査すら困難なのだ。
(たとえば“青嵐”。イメージで読み流せば読み流せてしまうが、調査すると、“繁茂した草木を揺り動かすやや強い南風。夏の季語”。驚くほど厳密である。)
父の俳句を読むためだけに電子辞書を買い、
父の句集をシャーペンで書き込みだらけにして、
まだまだ、判るどころか、“読んだ”とすら自信をもっては言えない状態である。
ほとんど全てのものには際限の無い奥行きがある。
ひとが生涯にわかることのできることの 少なさといったら。
ふと鍵盤でコードを確かめてみる。
途端に意味が判らなくなる。
CからAmに移行しているのではなく、
CからAmに転調しているのだと気付くだけでも、
何十分もかかる。
マイクの種類や位置、EQのポイント、シンセの機種まで、
その曲の“全て”を解析しようとしても、
まず無理である。
「この曲はどのような精神を礎に、何を目指して作られたか」も、
殆どの場合、理解や共有は極めて難しい。
「もしも本当に一枚の絵画を理解しようと思うなら、その一枚の画を見つめ続けて、疲れ果てて、椅子が必要になるまで見つめ続けなければならない」、
と言ったのはクレーだったろうか。忘れてしまった。
父の遺句集が仕上がって、読み始めて、3ヶ月ほど経った。
俳句の句集だ。ぼやっと読めば30分もかからない。
しかしひとたび、「しっかり読もう」と決意したなら、
驚くべき奥行きに出くわすことになる。
俳句には広辞苑にも載ってない漢字や単語が多用されるし、
ぼやっとイメージで読んでいたところを今一度調べると、
イメージと違っていたことが判ったりする。
ごく基本的な単語の意味の調査すら困難なのだ。
(たとえば“青嵐”。イメージで読み流せば読み流せてしまうが、調査すると、“繁茂した草木を揺り動かすやや強い南風。夏の季語”。驚くほど厳密である。)
父の俳句を読むためだけに電子辞書を買い、
父の句集をシャーペンで書き込みだらけにして、
まだまだ、判るどころか、“読んだ”とすら自信をもっては言えない状態である。
ほとんど全てのものには際限の無い奥行きがある。
ひとが生涯にわかることのできることの 少なさといったら。
- [2008/02/23 20:02]
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教宗じゃねぇし
禅師、退院。
鍼灸治療を受けながら、師の不在中に観じた自分の核心、
どうにもならない醜い塊りについて話してみた。
師、呵々と笑う。
以下、記憶を頼りに問答を再現。
「それがねぇ、坐ってっと消えてくのよ」
「え?あれが、消えるんですか?」
「うん。消えるの。」
「普段の、日常の意識とは全く違う、自分の核心、これこそが自分の本体、これこそが決して消えない自分の中心、と観じたんですが。」
「でしょ?
坐ってっと、いつかはそれに出会うんだわ。
それはそんなふうに醜い場合もあるし、
信じられないくらい美しい場合もあるし、
数年おきに交互に顕われたり、
つぎつぎに“これこそが自分の本体”ってのが入れ替わってく場合もある。
その“本体”がね、坐ってくうちに、ほぐれて、溶けて、なくなっていくんだよ。無常ってやつだね。
それはいきなりパァッとなくなる人もいるかもしれないし、
オレみたいに何十年も七転八倒せにゃならん場合もある。
つまり、オレはオレの宿題をこなさにゃいかん、
キミはキミの宿題をこなさにゃいかんのだ。
人によって違うんだわ。そこんとこが。
だからキミにあまりリクツ教えたりしないで、
ただ坐ってるわけだ。
そもそも(禅宗は)教宗じゃねぇわけだしね。
キミと話すのは楽しいよ。」
そう言われてなんとなく嬉しくなったが、さて。
こんど久々にコンサートなるものに食指が動き、
ジョン・ケージ作曲「龍安寺」
をスパイラルに聴きにいくのだが。
私はいったいどんな体験をするのだろう。
なんだか見当もつかなくなってきた。
鍼灸治療を受けながら、師の不在中に観じた自分の核心、
どうにもならない醜い塊りについて話してみた。
師、呵々と笑う。
以下、記憶を頼りに問答を再現。
「それがねぇ、坐ってっと消えてくのよ」
「え?あれが、消えるんですか?」
「うん。消えるの。」
「普段の、日常の意識とは全く違う、自分の核心、これこそが自分の本体、これこそが決して消えない自分の中心、と観じたんですが。」
「でしょ?
坐ってっと、いつかはそれに出会うんだわ。
それはそんなふうに醜い場合もあるし、
信じられないくらい美しい場合もあるし、
数年おきに交互に顕われたり、
つぎつぎに“これこそが自分の本体”ってのが入れ替わってく場合もある。
その“本体”がね、坐ってくうちに、ほぐれて、溶けて、なくなっていくんだよ。無常ってやつだね。
それはいきなりパァッとなくなる人もいるかもしれないし、
オレみたいに何十年も七転八倒せにゃならん場合もある。
つまり、オレはオレの宿題をこなさにゃいかん、
キミはキミの宿題をこなさにゃいかんのだ。
人によって違うんだわ。そこんとこが。
だからキミにあまりリクツ教えたりしないで、
ただ坐ってるわけだ。
そもそも(禅宗は)教宗じゃねぇわけだしね。
キミと話すのは楽しいよ。」
そう言われてなんとなく嬉しくなったが、さて。
こんど久々にコンサートなるものに食指が動き、
ジョン・ケージ作曲「龍安寺」
をスパイラルに聴きにいくのだが。
私はいったいどんな体験をするのだろう。
なんだか見当もつかなくなってきた。
- [2008/02/16 20:39]
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坐禅に於ける無残な歩み
何も感じない音楽、というのはある。
聴いた後に何も残らない音楽、というのもある。
しかし、聴いた後に、
「何も残らない」が永く残る音楽、
“無”が残り続ける音楽、
なのだということに、気付いた。
なんのことかというと、
坐禅をするようになってから、
ジョン・ケージ(John Cage)の音楽がわかるようになった。
いや、もちろん音符のシステムなどは、聴いたって判らない。
しかし、普通の(?)音楽と全く同じように、
思考や知識の補助を必要とせず、
魂と音が直接に繋がり、
聴きたいと心底願ったり、
心底聴いたりするようになったのだ。
――この人に似た音楽を作る人を私は知らない。
-------------------------
禅師が入院することになり、その際、
師の留守中、禅堂の仏具を録音してもいいか伺い、
許可を得ていた。
坐禅と、録音をしに、一人禅堂に入ったのは先週だった。
文殊大士像に礼拝し、録音の旨口上し、
坐禅から入ったのだが、
だめだ。
全然だめだ。
録音することへのはやる気持ちで、
まるっきりどうにもならない。
ただ録音する、というだけで、
坐ってることすらまともに出来ない自分を見せられる思い。
早々に坐禅を切り上げ、仏具の録音に。
もう録音のことしか頭に無い。
鉦を鳴らすのに、ご近所の犬が吠える。吠え続ける。
「消えろ、消えろ、消えろ、消えろ」と、
心底願ってる自分に気付く。
「黙れ」、ではない。「消えろ」。
いますぐいなくなれ。
遠くに行くのでは時間がかかる、
殺すのでも生き埋めでもなんでもいいから、
今すぐ、今すぐ犬よ、黙れ。失せろ。消えてくれ。
どうにか一通り録音を終えて、再び坐禅。
やはりうまく行かない。
様々な思いが去来する。
妄念を出るに任せることにする。
考えるに、
同じ事を、かつて実家で飼っていた犬にも思っていた。
14年生きていてくれたが、
吠えるたびに、拳で殴りつけたものだった。
こと音と音楽に関して、
自分がひどく不寛容な人間だという自覚はあったのだが、
禅堂で坐禅していて思い至ったのは、
この圧倒的な不寛容さが、
音楽に関してのものではなく、
それどころか、この圧倒的な不寛容さこそが、
自分の魂の核心なのだということ。
自分の魂の中心に、
何か真っ黒などうにもならない塊りがあって、
「黙れ、消えろ、失せろ、いなくなれ」と
凝り固まっていること。
この塊りが、魂の欠点なのではなく、
魂の核なのだということ。
日々の暮らしが成り立っているのは、
いわば尊敬してない人にも普通に尊敬語を使うように、
魂の核心に触れずにいるからだ、ということ。
どれほど孤独に苦しんでいようと、
じつは魂の本体は「失せろ」と叫んでいること。
「私は、生涯、決して悟ることはできない。」
と悟った。(ような気がした。)
なんだかタルコフスキー「ストーカー」のテーマのようだ、と書いてる今思ったが、それにしても私が禅堂で知覚した「真っ黒などうにもならない塊り」はなんだったのだろう。人間の無意識界の醜さは心理学をかじればよく知るところだが、人間の抑圧された低次の無意識というより、私は確かに「私の存在の中心、私の生命の核心、これこそが私の本体」と観じたのだった。
-------------------------
今日、再び一人禅堂で坐ってきたが、
「そもそもお前には、ここに坐ってる資格がない。」
という“理解のようなもの”に満たされた。
なぜそのような理解に至ったのか、思い出せない。
思い出せないので、
まだ坐禅はやめない。
聴いた後に何も残らない音楽、というのもある。
しかし、聴いた後に、
「何も残らない」が永く残る音楽、
“無”が残り続ける音楽、
なのだということに、気付いた。
なんのことかというと、
坐禅をするようになってから、
ジョン・ケージ(John Cage)の音楽がわかるようになった。
いや、もちろん音符のシステムなどは、聴いたって判らない。
しかし、普通の(?)音楽と全く同じように、
思考や知識の補助を必要とせず、
魂と音が直接に繋がり、
聴きたいと心底願ったり、
心底聴いたりするようになったのだ。
――この人に似た音楽を作る人を私は知らない。
-------------------------
禅師が入院することになり、その際、
師の留守中、禅堂の仏具を録音してもいいか伺い、
許可を得ていた。
坐禅と、録音をしに、一人禅堂に入ったのは先週だった。
文殊大士像に礼拝し、録音の旨口上し、
坐禅から入ったのだが、
だめだ。
全然だめだ。
録音することへのはやる気持ちで、
まるっきりどうにもならない。
ただ録音する、というだけで、
坐ってることすらまともに出来ない自分を見せられる思い。
早々に坐禅を切り上げ、仏具の録音に。
もう録音のことしか頭に無い。
鉦を鳴らすのに、ご近所の犬が吠える。吠え続ける。
「消えろ、消えろ、消えろ、消えろ」と、
心底願ってる自分に気付く。
「黙れ」、ではない。「消えろ」。
いますぐいなくなれ。
遠くに行くのでは時間がかかる、
殺すのでも生き埋めでもなんでもいいから、
今すぐ、今すぐ犬よ、黙れ。失せろ。消えてくれ。
どうにか一通り録音を終えて、再び坐禅。
やはりうまく行かない。
様々な思いが去来する。
妄念を出るに任せることにする。
考えるに、
同じ事を、かつて実家で飼っていた犬にも思っていた。
14年生きていてくれたが、
吠えるたびに、拳で殴りつけたものだった。
こと音と音楽に関して、
自分がひどく不寛容な人間だという自覚はあったのだが、
禅堂で坐禅していて思い至ったのは、
この圧倒的な不寛容さが、
音楽に関してのものではなく、
それどころか、この圧倒的な不寛容さこそが、
自分の魂の核心なのだということ。
自分の魂の中心に、
何か真っ黒などうにもならない塊りがあって、
「黙れ、消えろ、失せろ、いなくなれ」と
凝り固まっていること。
この塊りが、魂の欠点なのではなく、
魂の核なのだということ。
日々の暮らしが成り立っているのは、
いわば尊敬してない人にも普通に尊敬語を使うように、
魂の核心に触れずにいるからだ、ということ。
どれほど孤独に苦しんでいようと、
じつは魂の本体は「失せろ」と叫んでいること。
「私は、生涯、決して悟ることはできない。」
と悟った。(ような気がした。)
なんだかタルコフスキー「ストーカー」のテーマのようだ、と書いてる今思ったが、それにしても私が禅堂で知覚した「真っ黒などうにもならない塊り」はなんだったのだろう。人間の無意識界の醜さは心理学をかじればよく知るところだが、人間の抑圧された低次の無意識というより、私は確かに「私の存在の中心、私の生命の核心、これこそが私の本体」と観じたのだった。
-------------------------
今日、再び一人禅堂で坐ってきたが、
「そもそもお前には、ここに坐ってる資格がない。」
という“理解のようなもの”に満たされた。
なぜそのような理解に至ったのか、思い出せない。
思い出せないので、
まだ坐禅はやめない。
- [2008/02/03 18:47]
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