時空がゆがむっつーか
以前の記事で書いたが、
坐禅における道の途上で、
様々な世界に対する“あきらめ”が出てきた。
無理して若い人の音楽を理解しようとか、
無理して嫌いな音楽を好きになろうとか、
そういう思いが自分の中で死んでいった。
プロとしてはあまり良くないことだ。
しかし、それと同時に、何やら新しい地平が開けてきた。
それが何なのか、まだ断片的にしか分からない。
世界を広めることをあきらめたら、
世界がひろがりはじめるとはどういうことか。
禅師曰く。
「ん。そっちがほんと。
日蓮は最終的に南無妙法蓮華経に到達し、そこだけを掘り下げた。 それで世界が広がった。
法然は南無阿弥陀仏に到達し、そこだけ掘り下げ、世界を広げていった。
道元は只管打坐。ただただ坐り続けることに到達し、掘り下げ、そのことで世界が広がっていった。
例えは悪いけどね、アリジゴクみたいな感じよ。
掘り下げるとね、時空が歪むっつーのかな、
周囲のほうががコッチに寄ってくんの。それで世界が広がるんだわ。」
よし、掘り下げるぞ、と思うと、
思いもよらない問題が降って湧く。
これでは掘り下げたくてもスコップも持てない、
というような問題が、次々に。
「‥そうやって、よし掘り下げるぞ、って時に、 絶妙なタイミングで、
それをさせないような問題とか、人とか、現れません?」
禅師。
「そーそー(笑)。そう簡単にはさせないぞ、ってこったな」
「なんか天に悪態つきたくなりますね」
「(大笑)大いについたらいいよ。」
坐禅における道の途上で、
様々な世界に対する“あきらめ”が出てきた。
無理して若い人の音楽を理解しようとか、
無理して嫌いな音楽を好きになろうとか、
そういう思いが自分の中で死んでいった。
プロとしてはあまり良くないことだ。
しかし、それと同時に、何やら新しい地平が開けてきた。
それが何なのか、まだ断片的にしか分からない。
世界を広めることをあきらめたら、
世界がひろがりはじめるとはどういうことか。
禅師曰く。
「ん。そっちがほんと。
日蓮は最終的に南無妙法蓮華経に到達し、そこだけを掘り下げた。 それで世界が広がった。
法然は南無阿弥陀仏に到達し、そこだけ掘り下げ、世界を広げていった。
道元は只管打坐。ただただ坐り続けることに到達し、掘り下げ、そのことで世界が広がっていった。
例えは悪いけどね、アリジゴクみたいな感じよ。
掘り下げるとね、時空が歪むっつーのかな、
周囲のほうががコッチに寄ってくんの。それで世界が広がるんだわ。」
よし、掘り下げるぞ、と思うと、
思いもよらない問題が降って湧く。
これでは掘り下げたくてもスコップも持てない、
というような問題が、次々に。
「‥そうやって、よし掘り下げるぞ、って時に、 絶妙なタイミングで、
それをさせないような問題とか、人とか、現れません?」
禅師。
「そーそー(笑)。そう簡単にはさせないぞ、ってこったな」
「なんか天に悪態つきたくなりますね」
「(大笑)大いについたらいいよ。」
- [2008/06/27 11:28]
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古い家電のほうが
古い家電のほうが、
ほんとに良くなりはじめているらしい。
レトロとか、アンティークとか、そういう話ではない。
性能が、だ。
先日、扇風機を買いに行った。
用途としては、いわゆるサーキュレーション(エアコンの風を各部屋に循環させる)が主になるのだが、風量はウチの場合微弱でいいと判断したし、サーキュレーション用のものも、小さいクリップ型のものも風音がうるさいのは分かっていたので、普通の扇風機を買うことに決めていた。
普通の、静かな、扇風機。
まず、電器店に置いてあった大手メーカーの全機種。
「弱、中、強」など、あらゆるボタンを押すときに、
ピッ!
と音を発する。
うるさい。
そして、今の扇風機の状態~風量や、イオンや、首振りなど~を、
LEDで表示する。
眼にうるさい。
結局、聞いたこともないメーカーの、
¥2980の投げ売り扇風機を買ってきた。
回すと分かるのだが、プロペラが正確な円ではない。
伝統的な独楽のようにユラユラして見える。
その一番の安物が、一番性能がいい。
それでも、最弱の時でも風量が多すぎるし、風音もうるさい。
我慢して使っている。
我が家に元からある扇風機。
私が子供のころに父が買ったものだろうから、
30年以上前の製品か。
こっちの方が静かで性能が良い。
今だに壊れもしない。
私が一人暮らしを始めたときに買った炊飯器。
スイッチ1個。炊けたらガタン、とスイッチが上がるやつ。
20年以上壊れない。
今、こういうものは手に入らないようだ。
「玄米モード」とか「おかゆモード」とか機能がごっそりついて、
その部品からどんどん壊れて動かなくなっていくそうだ。
しかも主婦の皆さんの話などを漏れ聞くと、
釜の中心部と周辺部で炊き上がりが違ったり、
そもそも製品としてなってないものも多いのだそうだ。
そういえば固定電話も、買い換えるたびに音質が落ちていく。
寝る前に枕元に置いとくためのCDプレーヤーなど、今のが壊れたらどうしたものか。
・眼を閉じたまま手探りで操作できる
・どこも光らない
そんなものが今売っているのか。
電子楽器がダメになっていく、と嘆いていたが、
電気製品全体がダメになっているのだ。
多分、長引いたデフレ経済も影響しているのだろうが、
機能を増やして基本性能をだめにして壊れやすくして、
どのぐらい経済効果があるのだろう。
よくわからないが、どうやら、
古い電気製品は大事にしたほうがよさそうだ。
ほんとに良くなりはじめているらしい。
レトロとか、アンティークとか、そういう話ではない。
性能が、だ。
先日、扇風機を買いに行った。
用途としては、いわゆるサーキュレーション(エアコンの風を各部屋に循環させる)が主になるのだが、風量はウチの場合微弱でいいと判断したし、サーキュレーション用のものも、小さいクリップ型のものも風音がうるさいのは分かっていたので、普通の扇風機を買うことに決めていた。
普通の、静かな、扇風機。
まず、電器店に置いてあった大手メーカーの全機種。
「弱、中、強」など、あらゆるボタンを押すときに、
ピッ!
と音を発する。
うるさい。
そして、今の扇風機の状態~風量や、イオンや、首振りなど~を、
LEDで表示する。
眼にうるさい。
結局、聞いたこともないメーカーの、
¥2980の投げ売り扇風機を買ってきた。
回すと分かるのだが、プロペラが正確な円ではない。
伝統的な独楽のようにユラユラして見える。
その一番の安物が、一番性能がいい。
それでも、最弱の時でも風量が多すぎるし、風音もうるさい。
我慢して使っている。
我が家に元からある扇風機。
私が子供のころに父が買ったものだろうから、
30年以上前の製品か。
こっちの方が静かで性能が良い。
今だに壊れもしない。
私が一人暮らしを始めたときに買った炊飯器。
スイッチ1個。炊けたらガタン、とスイッチが上がるやつ。
20年以上壊れない。
今、こういうものは手に入らないようだ。
「玄米モード」とか「おかゆモード」とか機能がごっそりついて、
その部品からどんどん壊れて動かなくなっていくそうだ。
しかも主婦の皆さんの話などを漏れ聞くと、
釜の中心部と周辺部で炊き上がりが違ったり、
そもそも製品としてなってないものも多いのだそうだ。
そういえば固定電話も、買い換えるたびに音質が落ちていく。
寝る前に枕元に置いとくためのCDプレーヤーなど、今のが壊れたらどうしたものか。
・眼を閉じたまま手探りで操作できる
・どこも光らない
そんなものが今売っているのか。
電子楽器がダメになっていく、と嘆いていたが、
電気製品全体がダメになっているのだ。
多分、長引いたデフレ経済も影響しているのだろうが、
機能を増やして基本性能をだめにして壊れやすくして、
どのぐらい経済効果があるのだろう。
よくわからないが、どうやら、
古い電気製品は大事にしたほうがよさそうだ。
- [2008/06/24 05:35]
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海外向け「For Butoh Vol,1」完売のお知らせ
海外向け分の「For Butoh Vol,1」がおかげさまで完売いたしました。
今後、このアルバムは海外の皆様には iTunes Music Store をはじめとするデジタル販売のみとなります。何卒ご了承下さい。
国内にはまだ在庫がございます。(申し上げて良いものかどうか‥このアルバム、他の取扱店様は在庫僅少でございますが、なぜか渋谷のナディッフモダン様に潤沢に在庫が残っております‥ナディッフモダン様はとても素晴らしいお店ですので是非お立ち寄り下さい)
又、国内でもiTunesなどでデータ購入できることはいうまでもありません。
宜しくお願い致します。
今後、このアルバムは海外の皆様には iTunes Music Store をはじめとするデジタル販売のみとなります。何卒ご了承下さい。
国内にはまだ在庫がございます。(申し上げて良いものかどうか‥このアルバム、他の取扱店様は在庫僅少でございますが、なぜか渋谷のナディッフモダン様に潤沢に在庫が残っております‥ナディッフモダン様はとても素晴らしいお店ですので是非お立ち寄り下さい)
又、国内でもiTunesなどでデータ購入できることはいうまでもありません。
宜しくお願い致します。
- [2008/06/23 19:39]
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致命的一体感
N教のA・ワイダの特集を見て、考え込んでしまった。
彼は長い映画人生を、ポーランド人として、
ポーランド民衆との一体感を支えに生きていた。
たとえば、「灰とダイヤモンド」のラストシーン。
監督はあのシーンについて、
検閲官達は「ゲリラが無残に死んだ」と思い、
民衆は「党は将来のある若者をゴミ捨て場で殺した」と思うだろうと、
完全に“読んで”撮ったのだそうだ。
いつも「ありがとう」と言われて生きてきたそうだ。
道端で見知らぬ人に。
「あの映画をありがとう。あのとき何があったのか知ることができた」
「あのシーンを作ってくれてありがとう。あの街の本当の姿を伝えてくれて」
圧倒的な連帯感。
私は「耳のいい映画監督」を2人しか知らなくて、その一人がワイダ監督なのだが、音はおろか、映像について語ったインタビューすら、今回もとうとうなかった。
ただひたすら、検閲との攻防と、民衆との一体感。
去年あたりN教で観たが、とある高名な日本の映画監督は、若い頃やくざ映画の助監督をやっていて、学生運動が盛んだった当時映画館へ行くと、いよいよ主人公が敵対する組に殴りこみをかけるぞ、というときに、映画館内のあちこちから当時の学生運動特有の口調で「よーし!」「異議なし!」と掛け声が上がり、それを聞いて体が震えるほどの感動を覚え、自分の仕事の意味を体感し、その時の圧倒的な一体感が今でも自分の映画作りの礎になっている、と語っていた。
幸せな人たちだ。
一体感も連帯意識もなにもなく、
たった一人の人間として、
内的衝動も、外的義務もなしに何かを作るということが、
一体どういうことなのか、
彼らには理解できまい。
こう言ってよければ、
彼らは真の孤独を知らないのだ。
言い換えれば彼らは、
生涯“真の孤独”にたどり着かなくて済むほどの一体感を内面に蓄積しているのだ。
形相(けいそう)として、彼らの映像、音、脚本は偉大なものであるし、学ぶものも多い。
しかし内実を学ぶことはできないようだ。
それは私(達)の仕事。先人はどうやらいない。
僅かなヒントを遺した人々はいないわけではない。
鴨長明、リルケ、晩年のバッハ、狂う直前のニーチェ…
…しかしこういった偉大なる人々と、現代を生きる私(達)との間には、ある決定的に違う事情がある。
その事情について、ここに記する時間も度胸も能力も、今の私にはない。
彼は長い映画人生を、ポーランド人として、
ポーランド民衆との一体感を支えに生きていた。
たとえば、「灰とダイヤモンド」のラストシーン。
監督はあのシーンについて、
検閲官達は「ゲリラが無残に死んだ」と思い、
民衆は「党は将来のある若者をゴミ捨て場で殺した」と思うだろうと、
完全に“読んで”撮ったのだそうだ。
いつも「ありがとう」と言われて生きてきたそうだ。
道端で見知らぬ人に。
「あの映画をありがとう。あのとき何があったのか知ることができた」
「あのシーンを作ってくれてありがとう。あの街の本当の姿を伝えてくれて」
圧倒的な連帯感。
私は「耳のいい映画監督」を2人しか知らなくて、その一人がワイダ監督なのだが、音はおろか、映像について語ったインタビューすら、今回もとうとうなかった。
ただひたすら、検閲との攻防と、民衆との一体感。
去年あたりN教で観たが、とある高名な日本の映画監督は、若い頃やくざ映画の助監督をやっていて、学生運動が盛んだった当時映画館へ行くと、いよいよ主人公が敵対する組に殴りこみをかけるぞ、というときに、映画館内のあちこちから当時の学生運動特有の口調で「よーし!」「異議なし!」と掛け声が上がり、それを聞いて体が震えるほどの感動を覚え、自分の仕事の意味を体感し、その時の圧倒的な一体感が今でも自分の映画作りの礎になっている、と語っていた。
幸せな人たちだ。
一体感も連帯意識もなにもなく、
たった一人の人間として、
内的衝動も、外的義務もなしに何かを作るということが、
一体どういうことなのか、
彼らには理解できまい。
こう言ってよければ、
彼らは真の孤独を知らないのだ。
言い換えれば彼らは、
生涯“真の孤独”にたどり着かなくて済むほどの一体感を内面に蓄積しているのだ。
形相(けいそう)として、彼らの映像、音、脚本は偉大なものであるし、学ぶものも多い。
しかし内実を学ぶことはできないようだ。
それは私(達)の仕事。先人はどうやらいない。
僅かなヒントを遺した人々はいないわけではない。
鴨長明、リルケ、晩年のバッハ、狂う直前のニーチェ…
…しかしこういった偉大なる人々と、現代を生きる私(達)との間には、ある決定的に違う事情がある。
その事情について、ここに記する時間も度胸も能力も、今の私にはない。
- [2008/06/16 17:21]
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知覚
―見る前に電車の中で考えていたこと―
文化のシャッフルはどうやら終わり始めたようだ。
社会が撹拌を終え、少しずつ沈殿し始めているのが分かる。
私達の文化は老化し始めたのだ。
あとはじりじりと、いがみ合いながら、
鉱物資源や排出物質といった“文明”の側から崩壊しはじめ、
個人の心や人と人との関係性は硬化し、融通を失い、
滅んでいくのだろう。
私、というか、私達は、何しに生まれてきたのだろう。
かつての時代、とりわけ近代化の途上の時代、
人々は否応なしに役割を担わされ、
否応なしに生き、否応なしに死んでいった。
私達からは、“否応なしの自由”すら、去って行き始めている。
-------------------------
会場に到着。大層な混雑である。
近くに座った若い男性二人の、「この空間面白ぇじゃねぇか。こういう空間でよう、なおかつ酒が呑めるような空間でよう、オレはやりてぇんだよぅ。○○が音出してよう、△△がピアノ弾いてよう、オレが××な音出せばよう、なぁ、おもしれーだろ?」、といった会話が途切れ途切れに聞こえてきて、少し苦笑する。約半世紀前に私の父が書いた小説に出てくる“文化祭へ向かう少年の台詞”と基本的に変わらない。
公演が始まる。
櫻井郁也/十字舎房公演:
「タブラ・ラサ」。
ほどなくして、いつもの櫻井公演と何かが違うことに気付き始める。
動きがどうとか、音がどうとか、批評めいたことは書きたくない。
しかし、今までのどの櫻井公演とも、何かが決定的に違う。
櫻井氏がこちらを見る。
実際の櫻井氏は近眼なので、客席と目が合うことはないのだそうだが、それでも何度か眼で射抜かれるような体験をしたことがある。
しかし今日の眼は違う。
あれは櫻井氏の眼ではない。
巨大な、何も見ない眼が、何も見ない眼のまま、こちらをじっと見ている。
後半につれて、舞台空間に何かが充満しはじめる。
今までに見たどんなものとも、今までに体験したどんなものとも似ていない。
終盤にさしかかって気付いた。
この公演には『上部構造』が存在する。
なにか、完全に想像を絶した、完全に理解不能な、何らかの“存在”が、全く理解不能な理由と、全く理解不能な目的を持って、全く理解不能な関わりをかけてきている。
簡単に言うと、「なんか降りてきてる」。
いままでも“なんか降りてきてる”公演は観たことがある。踊りの公演を多く観る人なら、そういう現場に立ち会った経験が一度や二度ではない人も多いことと思う。
しかし、一体なんと言えばいいのか、
「ぜんっっぜん違う何か」がこの舞台に降りてきてるか、あるいは、その途方もない何かが何かをしていて、その行為の一部分がこの舞台公演全体なのか、
そのどちらかであるらしい。
私はポカンとしながら舞台を見つめる。
出演の方々は、このことに気付いておられるのか。
一体何が降りてきてるのか。
一体何が起きているのか。
不可知な空間が舞台に充満した中で、
アコーディオンの感動的な和音と櫻井氏の充実した身振り。
カーテンコール。割れんばかりの拍手。
隣の女性は涙を拭っている。
以上を簡潔にアンケート用紙に書いた後、
楽屋に櫻井氏を訪ねる。
たまらず尋ねる。
「いったい何が起きてたの。」
氏はただ満足げな笑顔。ご本人も気付かなかったのか、それともただ答えないのか。
-------------------------
―帰りの電車の中で考えたこと―
あれは一体なんだったのだろう。
今までに知覚したどんなものとも少しも似ていないし、
ほんの少しでも似た名詞や動詞や形容詞が見つからない。
…そういえば、どこかで笠井叡先生が、「神霊の中には人類の進化に全く関心を持たない、全く人間に姿を現さない存在もいる」と仰っていたような気がする。正確なところも、どこで読んだのかも思い出せないが、あるいはそういった存在が、人間に理解不能な理由と目的と方法であの舞台に顕現してきたのだろうか。その場合、関わった人間は今後どうなるのか。
解らない。
老いた母がいつか言っていた。
「人間の運命など人間が決められやせん」
いつもネガティヴ・シンキングの私に禅師が仰る。
「まぁ、それでもそのうち思いがけねぇなんかが来るんじゃない?」
-------------------------
人間は小さい。
七転八倒しても小さい。
怠れば小さい。
急いでも小さい。
世界は、想像を絶した何かなのだ。
私達は想像もつかぬまま、生まれ、生き、死んでいく。
できることはわずかな努力と、もっと僅かな結果と、
一瞬のチラ見ぐらいだ。
想像を絶しているのだから、
ここまで考察しても、
明日からの人生にこれといった変化はない。
―やはり明日からまた、あれやこれやと思い悩んで生きていく。
文化のシャッフルはどうやら終わり始めたようだ。
社会が撹拌を終え、少しずつ沈殿し始めているのが分かる。
私達の文化は老化し始めたのだ。
あとはじりじりと、いがみ合いながら、
鉱物資源や排出物質といった“文明”の側から崩壊しはじめ、
個人の心や人と人との関係性は硬化し、融通を失い、
滅んでいくのだろう。
私、というか、私達は、何しに生まれてきたのだろう。
かつての時代、とりわけ近代化の途上の時代、
人々は否応なしに役割を担わされ、
否応なしに生き、否応なしに死んでいった。
私達からは、“否応なしの自由”すら、去って行き始めている。
-------------------------
会場に到着。大層な混雑である。
近くに座った若い男性二人の、「この空間面白ぇじゃねぇか。こういう空間でよう、なおかつ酒が呑めるような空間でよう、オレはやりてぇんだよぅ。○○が音出してよう、△△がピアノ弾いてよう、オレが××な音出せばよう、なぁ、おもしれーだろ?」、といった会話が途切れ途切れに聞こえてきて、少し苦笑する。約半世紀前に私の父が書いた小説に出てくる“文化祭へ向かう少年の台詞”と基本的に変わらない。
公演が始まる。
櫻井郁也/十字舎房公演:
「タブラ・ラサ」。
ほどなくして、いつもの櫻井公演と何かが違うことに気付き始める。
動きがどうとか、音がどうとか、批評めいたことは書きたくない。
しかし、今までのどの櫻井公演とも、何かが決定的に違う。
櫻井氏がこちらを見る。
実際の櫻井氏は近眼なので、客席と目が合うことはないのだそうだが、それでも何度か眼で射抜かれるような体験をしたことがある。
しかし今日の眼は違う。
あれは櫻井氏の眼ではない。
巨大な、何も見ない眼が、何も見ない眼のまま、こちらをじっと見ている。
後半につれて、舞台空間に何かが充満しはじめる。
今までに見たどんなものとも、今までに体験したどんなものとも似ていない。
終盤にさしかかって気付いた。
この公演には『上部構造』が存在する。
なにか、完全に想像を絶した、完全に理解不能な、何らかの“存在”が、全く理解不能な理由と、全く理解不能な目的を持って、全く理解不能な関わりをかけてきている。
簡単に言うと、「なんか降りてきてる」。
いままでも“なんか降りてきてる”公演は観たことがある。踊りの公演を多く観る人なら、そういう現場に立ち会った経験が一度や二度ではない人も多いことと思う。
しかし、一体なんと言えばいいのか、
「ぜんっっぜん違う何か」がこの舞台に降りてきてるか、あるいは、その途方もない何かが何かをしていて、その行為の一部分がこの舞台公演全体なのか、
そのどちらかであるらしい。
私はポカンとしながら舞台を見つめる。
出演の方々は、このことに気付いておられるのか。
一体何が降りてきてるのか。
一体何が起きているのか。
不可知な空間が舞台に充満した中で、
アコーディオンの感動的な和音と櫻井氏の充実した身振り。
カーテンコール。割れんばかりの拍手。
隣の女性は涙を拭っている。
以上を簡潔にアンケート用紙に書いた後、
楽屋に櫻井氏を訪ねる。
たまらず尋ねる。
「いったい何が起きてたの。」
氏はただ満足げな笑顔。ご本人も気付かなかったのか、それともただ答えないのか。
-------------------------
―帰りの電車の中で考えたこと―
あれは一体なんだったのだろう。
今までに知覚したどんなものとも少しも似ていないし、
ほんの少しでも似た名詞や動詞や形容詞が見つからない。
…そういえば、どこかで笠井叡先生が、「神霊の中には人類の進化に全く関心を持たない、全く人間に姿を現さない存在もいる」と仰っていたような気がする。正確なところも、どこで読んだのかも思い出せないが、あるいはそういった存在が、人間に理解不能な理由と目的と方法であの舞台に顕現してきたのだろうか。その場合、関わった人間は今後どうなるのか。
解らない。
老いた母がいつか言っていた。
「人間の運命など人間が決められやせん」
いつもネガティヴ・シンキングの私に禅師が仰る。
「まぁ、それでもそのうち思いがけねぇなんかが来るんじゃない?」
-------------------------
人間は小さい。
七転八倒しても小さい。
怠れば小さい。
急いでも小さい。
世界は、想像を絶した何かなのだ。
私達は想像もつかぬまま、生まれ、生き、死んでいく。
できることはわずかな努力と、もっと僅かな結果と、
一瞬のチラ見ぐらいだ。
想像を絶しているのだから、
ここまで考察しても、
明日からの人生にこれといった変化はない。
―やはり明日からまた、あれやこれやと思い悩んで生きていく。
- [2008/06/07 02:59]
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