Vegasの泥沼を遠泳中 

Vegasではまっています。
動画初心者がここ数日で経験したこと。(抜粋。)
以下は、詩的でも有益でもない文章です。興味ある方のみどうぞ。

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追記/補足を読む

最近 ゆらりとした 

真っ黒い 何かに
つきまとわれています

その土地の 記憶 


こちらです

買いました。 



昨夜ア○ゾンで買おうとしたらエラーで買えなかったのですが、
今日、墓参りの帰りに、ひょいとPCショップ寄ったら、ありました。

システムバックアップが完了し、これからインストールです。
嵌りませんように。

動画パニ障 

色々とイレギュラーな出来事がかさなり、
色々と不安を感じてはいた。
その一つひとつを書き出せばきりがないが、
とりわけ大きかった流れとしては、

デジカメで動画を撮り始めたら、外界が急に敵対的になった

ということがある。
理由は単純明快。
歩いていて、立ち止まって、デジカメで静止画をパッと撮るのはそれほど怪しくないが、民家の壁を覆う蔦の葉が揺れているさまを1分間撮り続けてたら、ものすごく怪しい人に見えるのだ。

あっという間に、いつ「不審人物」として回覧板に載ってもおかしくない情況になってしまった。

それでも、始めてしまったものは気が済むまで止められない。そういう性分。

意識状態も、挙動も変化する。
あ、あそこをこっちの角度から撮りながらゆ~っくり歩いてくと思ったようなイメージが撮れるかな、と常に“ロケハン”しながら歩いているような状態。そりゃぁ挙動不審だろう。
街中で、ガードマンや市民の皆さんからの、
敵意や警戒や威嚇をひしひしと感じる。

自宅で参ったなぁ、と思ってるところに、ふと、長いこと開いていなかったやけに当たる占いの本が目に飛び込む。差し支えない~支配されない範囲で、この本を参考に行動を決めているくらいの本。
開く。調べる。

『活動範囲を拡げたくなる時だが、支障ばかり多いのでやめておいたほうが良い』

ぎゃぁ。


しかし、始めてしまうと止められない。そういう性分。
それに、どうやら、これはこれで複雑な神慮が働いていることも薄々感じる。
子供のころから図鑑で憧れ続けていた蛾。
生涯で、実物は標本や死骸も含めて3回しか見たことがなかったが、
先日なんと近所の民家の塀にとまっていた。1分間動画で撮った。
しかも、帰り道には息絶えていた。風に羽がなびく死骸を1分間動画で撮った。
(しかし、人目にはさぞかし怪しい人物に見えていたことだろう)

イレギュラーな行動にイレギュラーな意識状態、
(原因は自分だが)人々の警戒と敵意と威嚇、
その上に、一々書いてたらきりがないイレギュラーな出来事がごっそり重なった。

そのせいか、ある朝、起き抜けにひどい幻覚を見た。
いわゆる“自己分析”が可能な夢のようなものではなく、
まるっきりシュールな幻覚。
あとで調べたら、『出眠時幻覚』といって、非常に一般的な、カナシバリ程度にありがちな症状のようだが、調べるまでは「うわぁ、こんな幻覚見えるようになっちゃって、俺もいよいよキちまったのか??」と怯える。

この怯えが最終的な引き金となったのか、
パニック障害再発。
これほど大規模かつ頻繁な不安発作は坐禅を始めてから起きていなかったので1年以上ぶりだ。
忘れてた。俺、パニ障持ちなんだ。><

別件のイレギュラーな出来事のせいで非常な早起きをした朝、
レメディや抗不安剤などでだましだまし、
40分歩いて河まで歩き、15分撮影して、40分歩いて帰ってきた。
80分歩くことより、5分、10分、緊張と姿勢をを維持しながら撮影するほうが遥かにきつい。20年以上ぶりに動画を撮ったが、きつさは全然変わらない。静止画だとフィルムカメラとデジカメではトライ&エラーし放題のデジカメのほうが断然ラクだが、動画は8mmフィルムがデジカメになってもきつさは殆ど変わらない。つくづく動画はチカラワザだと思う。3日徹夜でVシネ1本撮る人々を、私は本気で尊敬する。

自宅に戻って、撮った素材を整理していたら、音声トラックに至近距離のクラクションや「何やってんだコラ」みたいな声が入っていることに気付く。撮影に夢中で気づかなかったが、今日も人々のいとなみを邪魔しながら挙動不審者やってたのか、と気付き、PCの前で一人不安発作。

ひぃぃ。

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まだVegas買ってない。
信頼している人に簡易版の存在を教えてもらい、私にはそれで十分らしいことに気付いたので、PV制作は俄然現実味を帯びてきた。今のデジカメで全部撮り、簡易版のVegasで加工できれば、予算は10分の1で済む。
早く入手したい。

今までに撮った素材の加工でうまくいきますように。
撮り直しの泥沼に嵌りませんように。

Re:「日本音楽に回帰するのは善なのか悪なのか?」  

――これは元々、前田ただし様のブログにコメントしようとして書き始めたら、長すぎてコメントと呼べない代物になったため、トラックバックとさせていただく文章です。

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ごぶさたしております。
元々音楽を「善悪」では考えないたちではありますが、
それでもちょうど昨今、似たようなことを考えておりました。
が、私自身、知識が圧倒的に乏しいこともあり、考えますに、自らの魂で遡れるものをある種の“原点”とする以外、自分にとって自然な道はないのではないか、という風に捉えております。

私の場合、『古い日本の音楽』で最も重要に流入しているのは中山晋平先生のメロディなのですが、ご存知かもしれませんが、大正時代の最初のレコードの大半は伴奏がなく、ただ唄っているか、あるいは“伴奏”のピアノがメロディとユニゾンしているだけです。これが10年ほど経って、昭和一ケタになると、同じ曲でもレコード化の際にオーケストラの伴奏が入るようになるのですが、「1番:Am-E-A、2番:Am-Em-A」という風に、長調、短調の区別はオケ譜が書けるほどの教育を受けた人にとっても困難であった様子が伺えます。(いわゆる『洋行帰り』の音楽家の方々と、こういった方々とにどのような交流や葛藤があったのか、私は存じ上げません。)

以下、未だ繋がらない思考の断片でございます。

1:古い音楽療法の本を読んでいて、
『明治生まれのお年寄りなどから「荒城の月のような朗らかな曲がききたい」と言われて、若い治療者が知らない症候と思ってしまう場合があるが、短調の音楽を悲しいものに感じ始めたのは、実は日本では最近のことであることを知っておくべきである』などという記述に出くわしたことがあります。
2:1000年前の京都の音楽は、1000年前の東北人にとって“同族の、類縁の音楽”であったかどうか。簡単にいうと、「日本」という概念そのものが結構近代的なのではないかと。
3:明治期に音楽教育を始める際、多くの政治家(元武士)が「音曲を民に教えるとは何事か」と激怒したため、“肺の鍛錬による結核の防止”を掲げ、“唱歌”という名の授業となった、しかし、現場の教師も地方に行けば行くほど授業そのものの意味が判らず、唱歌の時間になると生徒達に万葉集を絶叫させていたという記録があるのだそうです。そこがスタートラインとなり、その教育を受けた人もやがて親となり教師となり。それがほんの百年ちょっと前。
4:どうも昔の日本人は、非常に限られた例外を除き、感情がきわまって音声になって溢れ出たものを「うた」と呼んでいたふしがあります。メロディーと歌詞の区別が存在しない。万葉集も、当時は各人好きなようにフシ(≒メロディ)を付けて「うたわれていた」そうです。(とある言語学者が熱心に「和歌はうたうのが正しいんだ」とうたってみせている映像をN教で見ましたが、個人的には聴いててかなり苦痛を感じました)
R・シュタイナーが言うには、古代、「ヤーヴェ」というのは単語として存在したのではなく、常に「なかば歌われていた」そうですので、音と言葉が分離する以前の状態を、良くも悪くも日本人はごく最近まで保持していたのかもしれません。
5:ご存知のように、日本の多くの旋法が、西洋風に言うヨナ抜きの“ドミナント”に該当します。御詠歌で「みーみーみーれーみー」と唄ってるのを法事で聴いてると、私など勝手に脳内で「ら(Am)」を鳴らしてしまいます。この場合、「ら」は顕現しなかっただけで古来より存在していたのか、それとも西洋化した耳にあるように聴こえるのか。明治以降のどこかで、耳が“ひっくり返って”はいないか。
そういえばアラブ系の曲の多くも、ワンコードだと私には“ドミナント”に聴こえます。いつトニックに行くんだろう、と思ってるうちに終わる。ライなどでは、日本の演歌と同様、音階をやはりドミナントとして扱って、いわば“ひっくり返して”ポップスとして成立させています。
6:昔、「日本人と日本人以外では、鈴虫などの音を聴く脳の部位が全く違う」と聞かされたものですが、今ぐぐってみたら、最近その正否について論争になってるっぽいです。もちろん私に正否は解りませんが、myspaceをやりこめばやりこむほど、「ノイズ」というものに対する認識の違いを痛切に体験いたします。
7:ちょっと調べるたびに一々びっくりするのですが、いわゆる“邦楽”の楽器/器楽曲も、相当なものが明治以降大幅に整理整頓取捨選択されているようです。

というわけで、冒頭に「似たようなことを考えておりました」と書きましたが、似たようなことというのは、

「日本音楽とは何か?」
「そこに回帰することは可能か?」


でありました。
ま、ご覧のとおり混濁した思考が繋がることもなくだらだらと続いているだけですので、私としては、冒頭に書いたとおり、「自らの魂で遡れるものを“原点”とする」という姿勢しか、とりようがないのでありました。

二の足PV2:わからないなりに 

前回の続き。
とりあえず、手持ちのデジカメの「動画機能」で、動画を撮り始める。
まず、デジカメの動画機能では、フォーカスがどうにもならないことを思い知る。
撮影をスタートする直前のオートフォーカスで、ピントは固定されるらしい。
まぁいい。学習した。これも経験のうちだ。
動画撮影には絶対に必要だということを、学生時代に全身で学んだ、三脚。
これも、『普段持ち歩いて気になったものを撮りだめる』ことから始めようとしているので、ナシ。
手ブレ画像でもイメージとして成立しうるものしか、撮らないことにする。

しばらく撮ってると、カメラがアラート。

「カードが足りません」

え?なんで?

見ると、1分の動画につき、だいたい100M使っている。
10分で1Gか。
DVDが4.8Gと思うと、やけに大きいな。

どこか探せば画質を落として容量を稼ぐ方法があるのかもしれないが、
動画の知識が全くないので、調べる気にもならない。
ハイビジョンじゃなければ相手にされない時代がくるかもしれないし、
Youtubeのサイズを標準に考えればいいのかもしれない。

わかんないならわかんないなりに、
片手間に始めようと思って始めたんだが、
途端にハードルが高い。
1Gのカード入れてて、10分しか撮れないだなんて。

たとえば音の場合、44.1/24bitのwavで素材を録ってこようとか、
いや96Kだろうとか、MACならaifにしとこうとか、
SMFの0でメタタグ使ってアレしようとか、
「そもそものはじめかた」をある程度決めとくことができるが、
動画の場合どうするのが正しいのか。
拡張子すら判らない。

いっそビデオカメラ買うか、と調べても、
1万から11万まであって、
どれがどうなのか皆目解らない。

あーあ。なんにも判らない。
とりあえず、今調べたら、
メモリーカードが、ほんの数年前には想像もつかないほど安くなってることを知る。

大きいメモリーカード買うか。

あ、そんな大きいカードを私のデジカメは認識できるのか?
またマニュアルでしらべるのか‥‥

‥‥気楽に始めようとしても、結局気楽にはならないものか‥…

うーん…