SECOND EARTH REMIX PROJECT 

いつだったかmyspaceで、the_empathというドイツの人(たち?)から、「セカンド・アース・リミックス・プロジェクト」という企画で曲をリミックスしてくれって頼まれて、なんだか趣旨が読めなかったんですけど、やるだけのリミックスをやって、出しておきました。
ついさっき、「できた。ありがと。広めて。」みたいなメッセージが来たので、ここで広めておきます。

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SECOND EARTH REMIX PROJECT

メインページ(らしい。私はページの中頃。mushio rmxってとこ)
私のリミックスへの直リンク
趣旨ページ(らしい。私には読めないです…)

‥でした。

記念写真 PV第二弾 

20081124050827
朝5時 スタジオ退出
左から

長年舞台美術をしてきた手
長年踊ってきた手
若きギタリストの手
長年プラスチック・キーボードを弾いてきた手

虫雄@携帯より

撮り終えて PV第二弾 

20081124040406
バラし中
やはり実況は無理でした

虫雄@携帯より

出征 PV第二弾 

20081123201731
‥忘れ物ないかな。
PVの二作目の映像素材を、朝まで撮りに行くのです。
こうして携帯から実況してみようかな。
そんな余裕ないかな。

虫雄@携帯より

多忙 

なんだか風雲急を告げて忙しい。特に今週末あたりがピーク。
持ってくれよー<心と身体

禅堂 

禅師より 撮影と掲載を快諾戴きましたので

ここで坐っているのです
追記/補足を読む

櫻井郁也「ランズエンド」 感想 

櫻井郁也 ダンスソロ
「ランズエンド」
2008年11月14日(金)20:00、11月15日(土)16:00

その感想文。
私は批評家ではないし、
舞踏を批評する能力もないと思っている。
あくまでも、どこまでも、感想文。

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追記/補足を読む

カオスの自然学 

テオドール シュベンク 著「カオスの自然学」

いま自分のブログ内を検索したら、最初に登場するのが2006年1月、
「きちんと読もう」と書いているのが2008年8月。

いろいろ中断があったりしてうまく思い出せないのだが、
“読破”などしようとせず、初めから一行一行、吟味しつつ丁寧に読もうと思い立ったのは、
たしか今年'08の4月頃だったと思う。約半年かかったか。

思ったより早く読めたような気がする。
しかし、くまなくあまねくこの本を理解したかというと、甚だ怪しい。

又、著者か訳者か判らないが、ちょっとおかしいところも見つけてしまった。
耳の構造と音の関係の部分。
「音程」と「音階」という全く別の概念が混同され、
いつの間にか「和音」にすり替わっている。

このテの思推にありがちなことだ。
強靭な想像力と広範な知識をもってしても、
人間が正確に語れることは少ない。
この本は「水」をテーマに宇宙と地球と自然と人体と魂と霊を、誠実に考察している。
多少ヘンなとこがあっても軽々に批判などできるはずがない。
ゲーテからして「人間は生きている限り迷うものだ」と言っている。
全ては結局、進化の途上にあるのだろう。

そして、この本を丁寧に読んだこと、
この本の内容をたとえ断片的にでも腑に落ちるところまで理解したことは、
私の今生において大きな成果であったろうと思う。

視力が衰える前にもう一度読み込みたい気もするが、
未読の本の山を丁寧に片付けていこう。

次に手に取ったのは、アルセーニー・タルコフスキー詩集。
数ページ読んだ。
親子だから似てるのか、父だから大いに影響を受けて引用をしたのか、
私が映画を集中して観込んでいるから似て見えるのか。
おそらく、その全部。

息子アンドレイ・タルコフスキーが生まれた頃に書かれた、
かつての恋人の死を悼む詩に描かれている、その恋人の姿さえ、
私には、ありありと「鏡」の思い出に登場する「唇が切れる娘」に見えるのだ。

老いた 土蔵 


役割を 喪ってから
永い月日が 経ちました

何も起こらない中に 

電車の中で、上半身を横倒しにして、
倒れるように眠る、
作業着を着た若い男。

誰も注意しないし、誰も近づかない。
みんな知らん顔して、その男の周囲だけ、電車がすいている。

別にモラルどうこうの話ではない。

私には一目見て、そのオニイチャンが、
ほんとうのほんとうに疲れていることが解った。
自分にも経験があるから。

―それは、(とりあえず今まででは)人生最悪の日々だった。
心も身体も疲れ果て、仕事が終われば、もう家へ帰る体力も残っていなかった。
やっとのことで電車で座ると、そのまま縦に倒れこんで、
自分の腿の上に突っ伏して休んだ。
どれほどぶざまであろうと、そうする以外に、私にはどうすることもできなかった。
「死ね!ああいう奴は死ねっての!あははっ。戦争中はねぇ、ああいうのはみーんな死んじゃってたのっ!」
かろうじて首と眼球の筋肉を動かして見上げたときに見た、私を指差しながら若い女性に向かって陽気に大声で話しかけている老人の愉悦に満ちた表情を、私は生涯忘れないだろうと思う。
そしてそのときに、姿勢を戻すことも、立ち向かっていくことも、何一つできなかった自分のことも、生涯忘れないだろうと思う。
私はただただ「死ね!」という生の悦びに満ちた罵声を浴び、いつもの駅を転がるように降り、いつものように這うように道を進み、いつものようにアパートの階段を四つん這いで昇り、いつものように、最後の力を振り絞って明日の目覚ましをセットし、いつものように眠った。

電車で眠る作業着のオニイチャンが、その時の私と非常に近い状態であることは、どういうわけかすぐに解った。酒でもない、自暴自棄でもない、野蛮でも、礼儀知らずでもない。なぜ一目でわかるのだろう。自分が体験したことは一目で解るものなのだろうか。他の乗客にはどう見えていたのだろう。

わたしは、彼に背を向け、ドアの脇に立ち、思った。
「あんたのことは、オレにはわかってる。わかってるんだよ。」
つまり、何もしなかった。

そのとき、ふと思ったのだ。
何も起こらないというのはこういうことではないのか。
何も起こらないというのは幸せなことだと言う人がいるが、
何もいい事が起こらない、誰も助けてくれない、どこにも救いがないというのは、
人であろうと霊であろうと、だれかが無言で、
「あんたのことは、オレにはわかってる。わかってるんだ。」
と思って、どこかから見つめていることではないのだろうか。

―ここで文章が終われば、「ちょっとイイ話」で終わるだろうに、
私の思考は先へ続く。

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