ストライプハウスでの取り扱い一時中断のお知らせ
- [2009/09/28 17:08]
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人々から消えたもの
今の私達に 必要なのは
崇高さ だと思う
もう 私たちは 十分に 矮小化した
しかし
同じ結論に達した人は
十年前にも 二十年前にもいる
明治時代にだって いる
ということは
この ぎりぎりの 確信は
間違っているのかもしれず
人間は まだまだ矮小化するかもしれない ということか
崇高さ だと思う
もう 私たちは 十分に 矮小化した
しかし
同じ結論に達した人は
十年前にも 二十年前にもいる
明治時代にだって いる
ということは
この ぎりぎりの 確信は
間違っているのかもしれず
人間は まだまだ矮小化するかもしれない ということか
- [2009/09/20 11:19]
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禅者と学者
禅師と対話をしていていると、
しばしば「ゼンシャ」「ガクシャ」という言葉が出てくる。
学者と禅者の違いはなんだろう、と考える。
高名な禅僧さんの談話や説法なども、
結構ネット上にあるものを聴いたりするが、
専門用語などを除いて、本質的には、
こちらも知っていることしかお話しにならない。
色々と考えて、
学者というのは知らないことを知る人、
禅者というのは知ってることを知る人、
ということではなかろうか、と思うに至った。
人は死ぬ、とか、
雨はやむ、とか、
知識で知っていることであっても、
どれほど深く思い知るかについては、際限がない。
「悟りには果てがない」というのは、有名な言葉。
ところで、私はここで、グルジェフを思い出す。
「知識と理解は違う」
「最初は頭で理解し、やがて心で理解し、ついには全身で理解した」
というグルジェフ。
グルジェフの凄みと、禅僧の凄みは、
なぜ、それほど似ていないのだろう。
しばしば「ゼンシャ」「ガクシャ」という言葉が出てくる。
学者と禅者の違いはなんだろう、と考える。
高名な禅僧さんの談話や説法なども、
結構ネット上にあるものを聴いたりするが、
専門用語などを除いて、本質的には、
こちらも知っていることしかお話しにならない。
色々と考えて、
学者というのは知らないことを知る人、
禅者というのは知ってることを知る人、
ということではなかろうか、と思うに至った。
人は死ぬ、とか、
雨はやむ、とか、
知識で知っていることであっても、
どれほど深く思い知るかについては、際限がない。
「悟りには果てがない」というのは、有名な言葉。
ところで、私はここで、グルジェフを思い出す。
「知識と理解は違う」
「最初は頭で理解し、やがて心で理解し、ついには全身で理解した」
というグルジェフ。
グルジェフの凄みと、禅僧の凄みは、
なぜ、それほど似ていないのだろう。
- [2009/09/14 21:59]
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僅かな気付き
トラウマが人を救うこともあるのだな。
------------------------
体験しないほうが幸せな幸せ、
というものもあるのだな。
------------------------
不安には感染性があるのだな。
------------------------
笑顔の裏に、
善意を隠し持ってる人もいるのだな。
------------------------
あらゆるコピーは劣化するのだな。
------------------------
刺激を受けることや興奮することを、
快感に思う人と、苦痛に思う人がいるのだな。
------------------------
人々が現実と思っているものは、
大抵は幻想なんだが、
みんなが見ている幻想なんだから、
それはもう現実とも呼べるんだな。
------------------------
知識として知っていることでも、
生涯かけて体験を深めていくものなんだろうな。
------------------------
一番重要な知識は、
知らない、分らない、
ということを知り続けることなのかもな。
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体験しないほうが幸せな幸せ、
というものもあるのだな。
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不安には感染性があるのだな。
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笑顔の裏に、
善意を隠し持ってる人もいるのだな。
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あらゆるコピーは劣化するのだな。
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刺激を受けることや興奮することを、
快感に思う人と、苦痛に思う人がいるのだな。
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人々が現実と思っているものは、
大抵は幻想なんだが、
みんなが見ている幻想なんだから、
それはもう現実とも呼べるんだな。
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知識として知っていることでも、
生涯かけて体験を深めていくものなんだろうな。
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一番重要な知識は、
知らない、分らない、
ということを知り続けることなのかもな。
- [2009/09/07 00:03]
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無窮の変遷
ブッククラブ回で、
芦川聡「スティル・ウェイ」と、
B・イーノ「ミュージック・フォー・フィルムズ」の紙ジャケ・リマスター盤を買う。
そして考え込んでしまう。
芦川聡「スティル・ウェイ」(1982)について。
私はこのアルバムを、何度か買って、何度か手放している。
アナログレコードの時代から、買ってみる→衝撃を受けるほどつまらないと感じる→慌てて手放す→店頭で「あれ?でもやっぱり…」と買ってしまう。それを何度か繰り返した記憶がある。
今回あらためて聴いてみて非常に驚いたのは、
・このアルバムはすばらしいアルバムだ。
・私がこのアルバムを「いい音楽だ」と思えるようになったのは、21世紀以降のエレクトロニカを通過したアンビエントや、ポストロックを通過したアンビエントを聴いたからだと思う。
中高音域への音符や周波数帯の集中、ルート(根音)感の希薄さ、静かに果てしなく続く静謐な不安、こういったものは21世紀以降のポストロックやそこから派生してきたアンビエントに共通する質感だと私は思っている。
“アンビエント”の意味が変化・溶解した1990年代のアンビエントもあまり知らない、21世紀に入ってからこの種の音楽に触れはじめた若い世代がこのアルバムを聴いたら、私のように遠回りせずにすんなりしみじみ聴けるのではないだろうか。
気になるのは、芦川聡という方。
この方は、「あの店がなかったら日本の音楽は今頃どうなっていたんだろう…」と思うようなお店をやったり、「この音楽が日本で紹介されなかったら今頃日本はどうなっていたんだろう…」と思うようなアルバムのライナーの翻訳をやったり、活発に日本のアンビエントの素地を築いて、このソロアルバム「スティル・ウェイ」1枚をリリースし、
30歳で世を去ってしまわれた。1983年のことだそうだ。
この「スティル・ウェイ」のライナーを含め、多くの著作や手記などを拝読しても、
今となってはもはや当たり前すぎてわざわざ言葉にする必要のないことを詳細に言葉にして提示なさっていたり、
もはや状況が変化しすぎて当時の時代状況を知らないと何を言わんとしているか解らない文章があったりする。
しかしその音楽は、少なくとも私は、その素晴らしさを聴き取るのに21世紀まで待たねばならなかった。この音楽は、私には21世紀初頭の音楽に聴こえるのだ。
私の疑問。
この方は、当時の時代の中で、精一杯背伸びをして言葉を紡いでらしたのだろうか。
それとも、当時の時代の中で、精一杯身を縮めて言葉を紡いでらして、実際には、現代の私たちのことまで見通してらしたのだろうか。
------------------------
ブライアン・イーノ「ミュージック・フォー・フィルムズ」について。
買った理由は、不可解かつ簡単。
永年日常的に聴いていたCDが、経年変化により、
なんだかベタベタ、ネバネバしてきたから。
おそらくはレーベル印刷面に透明な塗料が塗ってあったんだろうとは思うのだが、手持ちのCDでセロテープみたにベタベタ、ネバネバするようになったCDは他にない。このアルバムだけが何故そうなったのかは、よく解らない。
で、私にとってこのアルバムは“日用品”に近いため、できれば10mmプラケースのものが欲しかったのだが、ここ数年見かけることもなく、数年前に出た紙ジャケ盤も市場から消えかかってきてたので、買った。
音が良くなっていて、戸惑う。
元々、イーノ氏のアルバムの中でも、この「ミュージック・フォー・フィルムズ」は突出して音が悪いことで有名だった。全てが淀んだ磁気テープの彼方にあって、味わいと呼べるレベルではないと多くの人が感じていた。だから、CD化されたとき多くの人が歓迎した。CDならば音の分離がいいので、曖昧な音も音楽の要素として聴くことが出来るようになった、と。
それが、リマスターによって、さらに音質がクリアになっている。
こんどは耳が戸惑うのだ。味わい深い曖昧さが失われてしまった、と。
たしかに、こういう音質にすれば、昨今の音楽の音質傾向に合わせることができるので、携帯プレーヤーなどでランダムに聴くときに便利かもしれない。
それに、詳細に調べたわけではないけれど、パッと1曲だけメーターで見た感じでは、0.5dBくらいしかマスタリングで音圧が変化していない。これは良心的な、ほんとうに良心的なリマスターだと思う。
それでも、耳は戸惑ってしまう。
既成の音楽の質感は、時代に合わせて変化していいものなのだろうか。
私の耳はいつかこの音に慣れるのだろうか。
わからない。
・芦川聡「スティル・ウェイ」は、リマスターどころかアナログレコードを録音してCD化していた。(針ノイズが入っている。)それでものめりこんで聴くことが出来る。
・B・イーノ「ミュージック・フォー・フィルムズ」は、アナログ時代には音が悪すぎた。CD化されて音の悪さが味わいになった。良心的なリマスターにもかかわらず、リマスターCDではどこかよそよそしくなってしまった。
・以前、マイルス・デイビスのとあるCDで、とあるリマスター盤を買ったら耳が痛くて聴くことが出来ず、廉価な輸入盤で買いなおしたら聴くことができたことがある。
・私は、復元された古楽器で当時の調律で演奏されたクラシック音楽より、20世紀以降の調律で20世紀以降も現役でいる楽器で演奏されたクラシック音楽を好む。
古ければいいのか、
新しければいいのか、
再現できていればいいのか、
時代に合わせていればいいのか。
個人的な好みが混入しすぎている。
いまはこれ以上思考を進めることはできない。
いつかこの考察を進める日が来るのだろうか。
私に「スティル・ウェイ」を聴いて感動できる日が来たように。
芦川聡「スティル・ウェイ」と、
B・イーノ「ミュージック・フォー・フィルムズ」の紙ジャケ・リマスター盤を買う。
そして考え込んでしまう。
芦川聡「スティル・ウェイ」(1982)について。
私はこのアルバムを、何度か買って、何度か手放している。
アナログレコードの時代から、買ってみる→衝撃を受けるほどつまらないと感じる→慌てて手放す→店頭で「あれ?でもやっぱり…」と買ってしまう。それを何度か繰り返した記憶がある。
今回あらためて聴いてみて非常に驚いたのは、
・このアルバムはすばらしいアルバムだ。
・私がこのアルバムを「いい音楽だ」と思えるようになったのは、21世紀以降のエレクトロニカを通過したアンビエントや、ポストロックを通過したアンビエントを聴いたからだと思う。
中高音域への音符や周波数帯の集中、ルート(根音)感の希薄さ、静かに果てしなく続く静謐な不安、こういったものは21世紀以降のポストロックやそこから派生してきたアンビエントに共通する質感だと私は思っている。
“アンビエント”の意味が変化・溶解した1990年代のアンビエントもあまり知らない、21世紀に入ってからこの種の音楽に触れはじめた若い世代がこのアルバムを聴いたら、私のように遠回りせずにすんなりしみじみ聴けるのではないだろうか。
気になるのは、芦川聡という方。
この方は、「あの店がなかったら日本の音楽は今頃どうなっていたんだろう…」と思うようなお店をやったり、「この音楽が日本で紹介されなかったら今頃日本はどうなっていたんだろう…」と思うようなアルバムのライナーの翻訳をやったり、活発に日本のアンビエントの素地を築いて、このソロアルバム「スティル・ウェイ」1枚をリリースし、
30歳で世を去ってしまわれた。1983年のことだそうだ。
この「スティル・ウェイ」のライナーを含め、多くの著作や手記などを拝読しても、
今となってはもはや当たり前すぎてわざわざ言葉にする必要のないことを詳細に言葉にして提示なさっていたり、
もはや状況が変化しすぎて当時の時代状況を知らないと何を言わんとしているか解らない文章があったりする。
しかしその音楽は、少なくとも私は、その素晴らしさを聴き取るのに21世紀まで待たねばならなかった。この音楽は、私には21世紀初頭の音楽に聴こえるのだ。
私の疑問。
この方は、当時の時代の中で、精一杯背伸びをして言葉を紡いでらしたのだろうか。
それとも、当時の時代の中で、精一杯身を縮めて言葉を紡いでらして、実際には、現代の私たちのことまで見通してらしたのだろうか。
------------------------
ブライアン・イーノ「ミュージック・フォー・フィルムズ」について。
買った理由は、不可解かつ簡単。
永年日常的に聴いていたCDが、経年変化により、
なんだかベタベタ、ネバネバしてきたから。
おそらくはレーベル印刷面に透明な塗料が塗ってあったんだろうとは思うのだが、手持ちのCDでセロテープみたにベタベタ、ネバネバするようになったCDは他にない。このアルバムだけが何故そうなったのかは、よく解らない。
で、私にとってこのアルバムは“日用品”に近いため、できれば10mmプラケースのものが欲しかったのだが、ここ数年見かけることもなく、数年前に出た紙ジャケ盤も市場から消えかかってきてたので、買った。
音が良くなっていて、戸惑う。
元々、イーノ氏のアルバムの中でも、この「ミュージック・フォー・フィルムズ」は突出して音が悪いことで有名だった。全てが淀んだ磁気テープの彼方にあって、味わいと呼べるレベルではないと多くの人が感じていた。だから、CD化されたとき多くの人が歓迎した。CDならば音の分離がいいので、曖昧な音も音楽の要素として聴くことが出来るようになった、と。
それが、リマスターによって、さらに音質がクリアになっている。
こんどは耳が戸惑うのだ。味わい深い曖昧さが失われてしまった、と。
たしかに、こういう音質にすれば、昨今の音楽の音質傾向に合わせることができるので、携帯プレーヤーなどでランダムに聴くときに便利かもしれない。
それに、詳細に調べたわけではないけれど、パッと1曲だけメーターで見た感じでは、0.5dBくらいしかマスタリングで音圧が変化していない。これは良心的な、ほんとうに良心的なリマスターだと思う。
それでも、耳は戸惑ってしまう。
既成の音楽の質感は、時代に合わせて変化していいものなのだろうか。
私の耳はいつかこの音に慣れるのだろうか。
わからない。
・芦川聡「スティル・ウェイ」は、リマスターどころかアナログレコードを録音してCD化していた。(針ノイズが入っている。)それでものめりこんで聴くことが出来る。
・B・イーノ「ミュージック・フォー・フィルムズ」は、アナログ時代には音が悪すぎた。CD化されて音の悪さが味わいになった。良心的なリマスターにもかかわらず、リマスターCDではどこかよそよそしくなってしまった。
・以前、マイルス・デイビスのとあるCDで、とあるリマスター盤を買ったら耳が痛くて聴くことが出来ず、廉価な輸入盤で買いなおしたら聴くことができたことがある。
・私は、復元された古楽器で当時の調律で演奏されたクラシック音楽より、20世紀以降の調律で20世紀以降も現役でいる楽器で演奏されたクラシック音楽を好む。
古ければいいのか、
新しければいいのか、
再現できていればいいのか、
時代に合わせていればいいのか。
個人的な好みが混入しすぎている。
いまはこれ以上思考を進めることはできない。
いつかこの考察を進める日が来るのだろうか。
私に「スティル・ウェイ」を聴いて感動できる日が来たように。
- [2009/09/01 01:37]
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