「歯止め」ダイジェスト版 公開
- [2009/11/28 01:28]
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見られてない実感
「神の沈黙」という言葉がある。
かみさまが黙ってる感じ。
ベルイマンの映画だと、“神の沈黙三部作”と呼ばれる作品群よりも、むしろ「処女の泉」のラストなどに、私は「かみさまが黙ってる感じ」を見て取る。
まったく酷い状況に対して、
「ひでぇな。そうきたかよ。カミサマ。」
と空をチラ見する感じ。
つまり、“神も仏もないような状態”であっても、
その状況に対して、うすうす神の目線を感じることができるということ。
神も仏もない状況であっても、それすらも神の意図の中にある、という実感。
あるいは、神の意に反した事柄に対しても、神は手を出さず、黙って地上の出来事を見つめているのだ、という実感。
しかし。
神の目線を感じないという状況を、いったいどう考えたらよいのだろう。
「ああ、今、この瞬間、確かに、確実に、カミサマは、見ていない。」
という実感を感じるとき。
これは滅多にない。というか、最近初めて感じた。
べつに、いつもカミサマの目線を感じて生きてるわけはない。しかし、いやそれだからこそ、『見られてない』という実感は、驚くべき体験であった。
これは体験してみないと分らないものかもしれない。あの体験は、たとえ無神論者や唯物論者であっても、同様に体験すれば驚くに違いないと思った。
退院なさった禅師に、ちょっとだけ伺ってみた。
(書かなかったけど、禅師はまた入院なされていたのです。)
禅師の仰ることを総合すると、どうやら、その実感というのも、ある種の神秘体験、あるいは宗教体験と呼びうるものかもしれない、ということのようだ。
すると、神々は、人間の状況に対して、
見えてるけど手も口も出さない(或いは出せない)ところと、
ほんとうに見えてないところがある、ということになる。
たぶん、R・シュタイナーのキリスト論と社会論をひっくり返すと、ヒントが出てくると思う。
けれども、本棚をひっくり返す時間は、ない。
あの強烈な『見られてない実感』は、
今後の人生でも何度か体験させられそうな、
そんな予感がする。
かみさまが黙ってる感じ。
ベルイマンの映画だと、“神の沈黙三部作”と呼ばれる作品群よりも、むしろ「処女の泉」のラストなどに、私は「かみさまが黙ってる感じ」を見て取る。
まったく酷い状況に対して、
「ひでぇな。そうきたかよ。カミサマ。」
と空をチラ見する感じ。
つまり、“神も仏もないような状態”であっても、
その状況に対して、うすうす神の目線を感じることができるということ。
神も仏もない状況であっても、それすらも神の意図の中にある、という実感。
あるいは、神の意に反した事柄に対しても、神は手を出さず、黙って地上の出来事を見つめているのだ、という実感。
しかし。
神の目線を感じないという状況を、いったいどう考えたらよいのだろう。
「ああ、今、この瞬間、確かに、確実に、カミサマは、見ていない。」
という実感を感じるとき。
これは滅多にない。というか、最近初めて感じた。
べつに、いつもカミサマの目線を感じて生きてるわけはない。しかし、いやそれだからこそ、『見られてない』という実感は、驚くべき体験であった。
これは体験してみないと分らないものかもしれない。あの体験は、たとえ無神論者や唯物論者であっても、同様に体験すれば驚くに違いないと思った。
退院なさった禅師に、ちょっとだけ伺ってみた。
(書かなかったけど、禅師はまた入院なされていたのです。)
禅師の仰ることを総合すると、どうやら、その実感というのも、ある種の神秘体験、あるいは宗教体験と呼びうるものかもしれない、ということのようだ。
すると、神々は、人間の状況に対して、
見えてるけど手も口も出さない(或いは出せない)ところと、
ほんとうに見えてないところがある、ということになる。
たぶん、R・シュタイナーのキリスト論と社会論をひっくり返すと、ヒントが出てくると思う。
けれども、本棚をひっくり返す時間は、ない。
あの強烈な『見られてない実感』は、
今後の人生でも何度か体験させられそうな、
そんな予感がする。
- [2009/11/22 12:30]
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終了:ひめしゃら塾舞踏公演 『千羽織り』
ひめしゃら塾 舞踏公演 『千羽織り』は、終了いたしました。
ご来場の皆様、ありがとうございました。
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- [2009/11/18 23:08]
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見牛と得牛の間辺り。但し推定。
禅堂で一人坐り、帰り際に文殊大士像に礼拝していて、
「あ、そっか。」
と声に出してしまった。
文殊大士(文殊菩薩)がなぜ獅子の上に坐禅しているのか。
それがわかった。
悟ったとは言わない。
むしろ悟ることがどのくらい遠いことか、悟った。
多くの禅者の皆様の、
あらゆる説明を拒む立場というのは、
大いに理解することが出来た。
もしも説明するなら、もっとえらい人や、もっとすごい人や、
もっと口のうまい人ですらも、
だいたい同じようにしか説明なさらないと思う。
つくづく、知識と理解は違う。
以上を踏まえた上で、
えらそうな、無理やりな、ヒント。
R・シュタイナーの言う「破壊の坩堝」。
古代ギリシャの「御者像」。
あ。
たった2行のヒントで、
すでに少しズレてるのが、自分でわかる。
これは確かに、説明しづらい。
それにしても。
坐禅、とりわけ曹洞禅って、
シュタイナーの言う“内的平静”を確かにするもの程度に思ってました。
ぜんぜんちがいますね。
こりゃ、すごい世界だわ。
「あ、そっか。」
と声に出してしまった。
文殊大士(文殊菩薩)がなぜ獅子の上に坐禅しているのか。
それがわかった。
悟ったとは言わない。
むしろ悟ることがどのくらい遠いことか、悟った。
多くの禅者の皆様の、
あらゆる説明を拒む立場というのは、
大いに理解することが出来た。
もしも説明するなら、もっとえらい人や、もっとすごい人や、
もっと口のうまい人ですらも、
だいたい同じようにしか説明なさらないと思う。
つくづく、知識と理解は違う。
以上を踏まえた上で、
えらそうな、無理やりな、ヒント。
R・シュタイナーの言う「破壊の坩堝」。
古代ギリシャの「御者像」。
あ。
たった2行のヒントで、
すでに少しズレてるのが、自分でわかる。
これは確かに、説明しづらい。
それにしても。
坐禅、とりわけ曹洞禅って、
シュタイナーの言う“内的平静”を確かにするもの程度に思ってました。
ぜんぜんちがいますね。
こりゃ、すごい世界だわ。
- [2009/11/11 02:10]
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牧神感
父の遺句集や、父が若い頃に書いた小説などを読んでいる時に感じる質感の中に、自分には理解出来ない、感じ取ることが出来ない何かが含まれているのを感じる時がある。
それは違和感や反感ではなく、そもそも理解出来ない、知らない何かが目の前にあるような感覚、とでも言えばいいだろうか。
「感じとることができない何かを感じている」というのは奇妙な言葉だが、他に表現のしようがない。
そして、これに似た質感をどこかで感じたことがあるのだが、それがなんなのか、長い間思い出せないでいた。
ある日、それをどこで感じるのかに気づいた。
ブルーノ・ワルターという人の音楽。
とりわけ、ベートーベンの「田園」。
で、考えるに、私に感じ取ることが出来ない何か、というのは、
牧神
ではないか、と思うに至った。
そして考え込んだ結果、牧神はもはや人々のもとを去っていったのだろう、と思った。
父の晩年の句に、牛や馬が見えない世の中になったことを嘆く句がある。今にして思えば、父は牧神が去ったことによって、ずいぶんとつらい思いをしたのかもしれない。
そしてさらに考えた結果、
人類はもはや牧神を呼び戻すことができず、
人類は牧神を発見する段階にあるのだ、と思うに至った。
その作業は、私個人の生涯では全く不十分だ。
百年後の人類は、牧神を発見しているだろうか。
そんなことをぼんやりと考えて、夜は更ける。
そういえば、
“夜が更ける”というのがどいういうことなのかも、
人類にはわかりづらくなってきている事に、
みんな気づいているのだろうか。
「夜が更ける」と書くとき、
私はもはや半分くらい、過去の体験を援用している。
それは違和感や反感ではなく、そもそも理解出来ない、知らない何かが目の前にあるような感覚、とでも言えばいいだろうか。
「感じとることができない何かを感じている」というのは奇妙な言葉だが、他に表現のしようがない。
そして、これに似た質感をどこかで感じたことがあるのだが、それがなんなのか、長い間思い出せないでいた。
ある日、それをどこで感じるのかに気づいた。
ブルーノ・ワルターという人の音楽。
とりわけ、ベートーベンの「田園」。
で、考えるに、私に感じ取ることが出来ない何か、というのは、
牧神
ではないか、と思うに至った。
そして考え込んだ結果、牧神はもはや人々のもとを去っていったのだろう、と思った。
父の晩年の句に、牛や馬が見えない世の中になったことを嘆く句がある。今にして思えば、父は牧神が去ったことによって、ずいぶんとつらい思いをしたのかもしれない。
そしてさらに考えた結果、
人類はもはや牧神を呼び戻すことができず、
人類は牧神を発見する段階にあるのだ、と思うに至った。
その作業は、私個人の生涯では全く不十分だ。
百年後の人類は、牧神を発見しているだろうか。
そんなことをぼんやりと考えて、夜は更ける。
そういえば、
“夜が更ける”というのがどいういうことなのかも、
人類にはわかりづらくなってきている事に、
みんな気づいているのだろうか。
「夜が更ける」と書くとき、
私はもはや半分くらい、過去の体験を援用している。
- [2009/11/06 00:30]
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終了:点滅ソロ舞踏「ユメノ道化」
- [2009/11/03 19:54]
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