「歯止め」ダイジェスト版 公開 

千羽織り』のために作曲した曲のうち、

歯止め (Brakeless)」をダイジェスト版に編集して公開しました。

見られてない実感 

「神の沈黙」という言葉がある。
かみさまが黙ってる感じ。
ベルイマンの映画だと、“神の沈黙三部作”と呼ばれる作品群よりも、むしろ「処女の泉」のラストなどに、私は「かみさまが黙ってる感じ」を見て取る。
まったく酷い状況に対して、
「ひでぇな。そうきたかよ。カミサマ。」
と空をチラ見する感じ。
つまり、“神も仏もないような状態”であっても、
その状況に対して、うすうす神の目線を感じることができるということ。
神も仏もない状況であっても、それすらも神の意図の中にある、という実感。
あるいは、神の意に反した事柄に対しても、神は手を出さず、黙って地上の出来事を見つめているのだ、という実感。

しかし。
神の目線を感じないという状況を、いったいどう考えたらよいのだろう。

「ああ、今、この瞬間、確かに、確実に、カミサマは、見ていない。」
という実感を感じるとき。


これは滅多にない。というか、最近初めて感じた。
べつに、いつもカミサマの目線を感じて生きてるわけはない。しかし、いやそれだからこそ、『見られてない』という実感は、驚くべき体験であった。
これは体験してみないと分らないものかもしれない。あの体験は、たとえ無神論者や唯物論者であっても、同様に体験すれば驚くに違いないと思った。

退院なさった禅師に、ちょっとだけ伺ってみた。
(書かなかったけど、禅師はまた入院なされていたのです。)

禅師の仰ることを総合すると、どうやら、その実感というのも、ある種の神秘体験、あるいは宗教体験と呼びうるものかもしれない、ということのようだ。

すると、神々は、人間の状況に対して、
見えてるけど手も口も出さない(或いは出せない)ところと、
ほんとうに見えてないところがある、ということになる。

たぶん、R・シュタイナーのキリスト論と社会論をひっくり返すと、ヒントが出てくると思う。
けれども、本棚をひっくり返す時間は、ない。

あの強烈な『見られてない実感』は、
今後の人生でも何度か体験させられそうな、
そんな予感がする。

終了:ひめしゃら塾舞踏公演 『千羽織り』 

ひめしゃら塾 舞踏公演 千羽織りは、終了いたしました。
ご来場の皆様、ありがとうございました。

見牛と得牛の間辺り。但し推定。 

禅堂で一人坐り、帰り際に文殊大士像に礼拝していて、
「あ、そっか。」
と声に出してしまった。

文殊大士(文殊菩薩)がなぜ獅子の上に坐禅しているのか。
それがわかった。

悟ったとは言わない。
むしろ悟ることがどのくらい遠いことか、悟った。

多くの禅者の皆様の、
あらゆる説明を拒む立場というのは、
大いに理解することが出来た。

もしも説明するなら、もっとえらい人や、もっとすごい人や、
もっと口のうまい人ですらも、
だいたい同じようにしか説明なさらないと思う。
つくづく、知識と理解は違う。

以上を踏まえた上で、
えらそうな、無理やりな、ヒント。

R・シュタイナーの言う「破壊の坩堝」。
古代ギリシャの「御者像」。

あ。
たった2行のヒントで、
すでに少しズレてるのが、自分でわかる。
これは確かに、説明しづらい。

それにしても。
坐禅、とりわけ曹洞禅って、
シュタイナーの言う“内的平静”を確かにするもの程度に思ってました。

ぜんぜんちがいますね。
こりゃ、すごい世界だわ。

牧神感 

父の遺句集や、父が若い頃に書いた小説などを読んでいる時に感じる質感の中に、自分には理解出来ない、感じ取ることが出来ない何かが含まれているのを感じる時がある。
それは違和感や反感ではなく、そもそも理解出来ない、知らない何かが目の前にあるような感覚、とでも言えばいいだろうか。
「感じとることができない何かを感じている」というのは奇妙な言葉だが、他に表現のしようがない。
そして、これに似た質感をどこかで感じたことがあるのだが、それがなんなのか、長い間思い出せないでいた。

ある日、それをどこで感じるのかに気づいた。
ブルーノ・ワルターという人の音楽。
とりわけ、ベートーベンの「田園」。

で、考えるに、私に感じ取ることが出来ない何か、というのは、

牧神

ではないか、と思うに至った。

そして考え込んだ結果、牧神はもはや人々のもとを去っていったのだろう、と思った。
父の晩年の句に、牛や馬が見えない世の中になったことを嘆く句がある。今にして思えば、父は牧神が去ったことによって、ずいぶんとつらい思いをしたのかもしれない。

そしてさらに考えた結果、
人類はもはや牧神を呼び戻すことができず、
人類は牧神を発見する段階にあるのだ、と思うに至った。

その作業は、私個人の生涯では全く不十分だ。
百年後の人類は、牧神を発見しているだろうか。

そんなことをぼんやりと考えて、夜は更ける。

そういえば、
“夜が更ける”というのがどいういうことなのかも、
人類にはわかりづらくなってきている事に、
みんな気づいているのだろうか。

「夜が更ける」と書くとき、
私はもはや半分くらい、過去の体験を援用している。

終了:点滅ソロ舞踏「ユメノ道化」 

点滅 ソロ舞踏公演 『ユメノ道化』は、
終了いたしました。
ご来場の皆様、ありがとうございました。
追記/補足を読む