虫っぽい日々の雑感 

疲れ果てて駅に座っていたら、足元を一匹の甲虫が歩いて行った。
その歩く姿を見て、しみじみ、
「ああ、虫って、いいなぁ」
と思った。
なんだかよくわからないが、
子供のころ、虫が好きだった感情がよみがえってきたのだ。

と同時に、なんだか、自分がどこか、虫っぽいことに気づいた。
昆虫の行動パターンと、自分の行動パターンには、
どこか似たところがある。
そんなことを考えて「虫雄」を名乗っていたわけではないけれど、
自分の行動が昆虫的であることに気付いたので、
やはりこの名前に間違いはなかったのだろう。

------------------------

年をとるにつけ、虫は必ずしも好きな動物ではなくなってきたのだが、
それでも私は、犬や猫よりは、魚やクラゲなどを好む。
人間に近い動物ほど興味が薄れるのかもしれない。
あるいは、感情~アストラル的なるもの~に対する感受性が、
生来弱いのかもしれない。
昔、喘息だったし。
(アストラル体と腎臓・副腎と喘息と多血質との関係は、
ホルツアッペル「体と意識をつなぐ四つの臓器」を参照のこと)

------------------------

そんなことを言いながらも、
禅師宅の猫とは友達だし、
病院前に繋がれて吠えていた犬は、撫でる。

------------------------

要するに、この年齢になってやっと、
アストラル体が“どうにかなる”ようになってきたらしい。
これには、猛烈に苦しいイニシエーションが必要だったし、
これからも苦悶の秘儀は続くのだろう。

「復讐をすることは美徳だ」という神と、
「復讐をしないことは美徳だ」という神がいて、
古代ギリシャのある時期から矛盾する2種類の神が人間に対して拮抗するようになった、
というのをどっかで読んだ。
どこで読んだかは、忘れてしまった。

------------------------

monotronは非常に使い甲斐があると思ったのだが、
ふと検索かけたら、すでに詳しい人々が改造合戦を繰り広げていて、
ここで競争しても無意味か、と滅入る。
が、禅師に、
「それは、キミがやることかい。
改造している人々は、キミみたいな音楽を作るのかい。」
と言われて、ちょっと思い直す。

それでも、
これに見合った奏法を見い出し、修練し、
これに見合った録音法を考え、
これに見合ったメロディを生み出し、
多重録音し始める頃には、
monotronは壊れて、買い換えたくても生産中止になっているかもしれない。

------------------------

つまり、さっさとやらねば生き残れないのだが、
さっさとやるようには、魂が出来ていない。

------------------------

リボンマイクが欲しいのだが、
リボンマイクの音が欲しいのであって、
録りたい音があるわけでもなく、
生音を録れるような自宅でもない。

------------------------

最新のオーケストラ音源でも買おうか、
という思いもあるにはあるが、
がんばってシステムを構築して、
がんばって使い方を覚えて、
ハリウッドにも負けない、
「どこにでもある音楽」を作れるようになって、
それでどうなるのか、という思いもある。

------------------------

知り合いのミュージシャンが、
本業ではない楽器を熱心に練習して、
ちょっとしたレコーディングなら自力で済ませられるところまで上達した。
なぜそんなに練習する努力ができて、
しかも上達ができるのか訊いてみたら、
「なぜって、そこに楽器かあるから触りたくなるんで、
触ってるうちに練習したくなって、
練習してるうちになんだかうまくなるんですよ。
舟沢さん、やんなきゃいけないんじゃないか、っていう、
強迫観念みたいので練習してません?」
と言われた。

強迫観念ナシに練習するなど、
考えてみたこともなかったので、
考え込んでしまう。
人間の種類が違うといえば、それまでなのだけれど。

------------------------

なんだかんだいって、
やりたいようにやることかもしれない。
無理をしても、沈む船にしがみついてるだけかもしれない。
(それが無意味かどうかは別として。)
しかし、自在の境地など、
書道なら70以降までかかってあたりまえだそうだし、
私の場合、自分の楽器が半年先にもまだ動くかどうかも、解らない。

そういうわけで、色々なことを、困っている。

仮面の展覧会 

千葉市美術館で「MASKS-仮の面」という展覧会をやってて、
ふらりと見に行く。
私は、仮面というものを、あまり理解していない気がする。
“自我の変容”とでもいうのだろうか、
そういうものに対する感受性が、どうも低いらしい。
そういう、いわば不得意なものをじっくり体験するのは、
じつは人生の醍醐味ともいえる。
とくに「つらいけどがんばって見る」わけでもないので、
いわば副作用なしに希少な栄養が摂取できる。

------------------------

仮面についての展覧会だが、
日本を含むアジア、アフリカ、南アメリカの仮面が大半。
仮面と言っても非常に多様な用途があることを知る。
しかも、複数の用途が曖昧に入り混じっている場合もある。

そもそも被るための仮面ではなく、
奉納のために作られた面というのが非常に多い。
そういった奉納用であっても、人が被っても前が見えるように目に穴を開けてある場合がある。
つまり、用途が限定されているようで、どこか限定されていない。

どう見ても「仮面」とは呼べない、人間くらいの大きさの、神殿のミニチュアかなにかのようなものがあるが、説明を読むと、普段は聖なる場所に『ご神体』みたいな感じで置いてあって、儀式のときはそれを持ち出して頭に載せて踊る、なんていうのもある。(どうすればあれが頭に載るのか、ちょっと想像はつかなかった)
逆に人が被れないほど小さい面もあり、その多くが頭上に載せて顔を布で覆うタイプの仮面であったが、面白かったのは、村なり家なりの聖域に大きい「それ」が安置してあって、それの小さいものを持ち歩く事で「それ」とのつながりを維持する、という用途のものもあった。
「端末」みたいな感じか。

それと、仮面というのはえてして恐ろしい表情であることを知る。
文化が違うせいでたまたま怖い顔に見えるのではなく、
怖い顔に作って、魔よけに使うのだ。
逆に、東南アジアの地域によっては、
不吉な仮面というのは笑顔の場合がある。
不幸は笑顔で訪れるものだ、と考える地域があるわけか。

驚いたのは、用途が「判らない」仮面。
飾り用でも、儀式用でも、奉納用でも、演劇用でもなく、
その顔が何を表しているのかも、「わからない」。
蒐集した側はもちろん、作っている当の部族にも、
その仮面が何のために作られるのか、「わからない」。

この、「わからない」というところに、
仮面というものが持っている危険性を感じ取るのだが、
もともと仮面に対する感性が強くないので、
どこがどう危ないのか、うまく言葉にできない。

非常に技術的に「巧い」仮面と、
とても「素朴な」仮面が、同列に陳列してある。
そもそも毎年祭りのために普通の人が作って、
祭りが終わると燃やしてしまう仮面だったので、
残っているのが非常に貴重だ、という但し書きがあったりして、
名作だから後世に残ったものばかりではないらしいとわかる。
そもそも巧拙など大した問題ではない仮面も、たくさん後世に残っているわけだ。
逆に、名工が心血を注いだ傑作であっても、数百年の間に壊れ、人々から忘れ去られた面も多いことだろう。

一つ一つの面を、一つ一つの音楽に見立てて、
数百年後に陳列される音楽のことを思い浮かべる。

monotron 

KORGのmonotronというアナログシンセを買った。
発表された当時、画像を見て失笑し、
そのまま忘れていたもの。

実売価格、5千円くらい。つまり、おもちゃ。

楽器屋でいじってみたら、
失笑できない可能性を秘めていることがわかったので、買ってきた。

一応、気付いたことをまとめておく。

------------------------
追記/補足を読む

ゴリラポッド 

ゴリラポッドというものがあって、
デジカメ用のフレキシブルな簡易三脚なのですが、
レコーダーにも、便利です。


孤独デフォルト 

これほどまでに孤独が蔓延する世界で、
なぜ孤独は共有できないのだろう?
と思ったが、
そもそも共有できないもののことを孤独と呼ぶのだと気付いた。
あたりまえのことが、じわじわと分らなくなってくる。

孤独には二種類あるようだ。
不全感を伴うものと、充実感を伴うもの。
英語で言うLonelinessとSolitudeみたいなものだろうか。
ではLonelinessをSolitudeに変化させればいろんなことがうまくいくかというと、
そう簡単でもないことは知っている。
この二つは共存している場合もあるし、
話し相手がいないというのと、
取引先がいないというのを、
同列に考えるのも難しい。
個人の内部ですら、多様な孤独が生成されているのだ。
(経済的孤独が、最も自殺率が高いらしいが)

孤独は、ありふれたものになった。
しかし、それは、共有できない。
これでは毎日毎日、刃物に囲まれて暮らしてるみたいだ。

しかし、「ぼくたちさびしいよね」と寄り集まっても、
私の場合、孤独は解消されないと思う。(解消される方もおられるかもしれないが)

------------------------

フリー・インプロヴィゼーションを得意とする人々には、
いまは有利な時代かもしれない。
昨今のフリー・インプロの中には、
かつてのフリー・ジャズとは違う何かが生成されているような気がする。
いま私が感じているインプロへの魅力に対して、
私はどう振舞ったらいいのか、まだよくわからない。

老母に会いに行くと、私の推敲体質は生まれつきのようで、
幼少時の私はずっと言葉を話さず、ある日突然脈絡のある言葉を話したのだそうだ。
多分、覚えたての言葉を、頭の中で推敲していたのだろう。

インプロヴィゼーションについては、
我が運命のメニューに入っているかどうかよくわからないことだし、
今しばらくは自宅で暗中模索することとする。

フリー・インプロヴァイザーの方々にお会いして時折感じる、
あの愕然たる魂の質の違いも、
いつの日か取り付く島がみつかるのかもしれない。

ノヴァーリスも書いていたが、
全てのはじまりは、たどたどしい。

------------------------

しかし、
全ての問題の根源は、きっと、別の場所にある。

------------------------

坐禅をしていてしばしば思うのは、
時間の区切れということ。
リセットとは違う。
時間を明確に区切ることで、
人は確かに、少し、変化する。
これは坐禅の目的でも本質でもないだろうが、
坐禅の功徳の一つだろうと思う。

脈絡なく書いていると思わないで頂きたい。
時間の、区切れ。
これが、何か重要なヒントを誘発するような気がするのだ。