車内より 


ものすごい 雨
この真っ暗な雨を撮ろうとしたら
光が 写りました

(携帯より)

似てくる話 

人生において、ほんとうに酷い経験をした場合、
その只中においては、それを経験しきれていないことがある。

その酷い経験が、その人の「経験する能力」を、
はるかに凌いでいるのだ。

そういう場合、その経験が経験として成立するのに、
数年かかる場合も、珍しくない。
(私たちは時として、それが生涯かかっても終わらないケースすら目にする)

「あの経験はなんだったのか?」
「なぜあのようなことが起こったのか?」
「そもそも私は、いったい、何を経験したのか?」


そういう自問が、延々と、間断なく、続く。

やがて、何が起こったのかが、点々と、見え始めることがある。
ぽろり、ぽろりと、目から鱗が落ち始めるのだ。

「ああ、あれは、人為的に引き起こされた出来事だったのだ。」
「ああ、あのとき、あの人は、嘘をついていたのだ。」
「ああ、あのとき、あの人は、何もかも、わかっているふりだったのだ。
あの人は、何もわからないまま、深くうなずいていたのだ。」
「ああ、あのとき、あの人は、あらかじめ言う順番を決めていたのだ。
あの順番で言えば、何もかも、私のせいにすることができるから。
しかしなぜ、2人きりの状態でそんなことをしたのだろう?
だれも見てないところで私に罪をかぶせたって、意味がないじゃないか。」
「ああそうか。あの人は、自分のミスを隠すために私をかくまっているのだ。
すべてのミスや罪を私になすり付けておいて、その私をかくまえば、
自分の罪を隠しながら、隠していること自体すら隠すことができるじゃないか。
何があったかのかを誰かが本気で調べたとしても、
あの人が私の罪を隠してあげているように見えるので、
その人は、面倒見のいい人と思ってもらえるじゃないか。」
「ああ、あの人は、私が、あの人には分からないことを質問したから、
私のことを、憎んでいるんだ。
あの人にとって、答えられない質問をされるということは、
いや、質問をされるということそのものが、
なにか、侮辱を受けるようなことであったのだ。」


そんなふうに、何年も、何年もかけて、
少しづつ、少しづつ、
自分が何を経験させられたのか、
判ってくる。

そして、
「ああ、そうか」と気が付いて、魂が震撼し、
愕然としている最中に、
夜の電車の窓に目をやると、
そこに写った自分の顔を見て、さらに、愕然とする。

想像を絶した酷い人に、
想像を絶した酷い経験をさせられ、
やがて想像力が追いついて、
その人の心や、その人の行動の意図が判ってくるにつれて、

その人に、顔が似てくるのだ。

追記/補足を読む

まっすぐに淀んでいる 



琥珀色、というか、トパーズ色、というか、
澄んだ茶色の、東京湾。 
潮風に滞空しているのは、
海鳥ではなく、鴉。


まっすぐに 淀んだ風を見つめて
何かを 思い出しそうになる