軽く作れない 

気軽にものが作れないというか、
使い捨てのものが作れないというか、
そういう気質・体質は、時代にそぐわない。

なので、悪戦苦闘しているのだが、
気軽にやろう、とがんばってみても、
結局、煮込んでしまうというか、
がんばってしまう。

そんなこんなで、
どういうリアクションがくるのか分かりませんが、
DVD「夜の彼岸」の普及盤、つくりました。
11/3の夜踊ルの会場で、売ります。

XR-NoizBox II 

先日も書きましたが、XR-NoizBox II というシンセを買いました。
作った方の実質ハンドメイドのもので、
ガジェットシンセというんでしょうか、
手のひらサイズのアナログシンセです。



追記/補足を読む

エーテリアル 

エーテリアル/エーテル的って、
世間では間違って使われてるよなぁ、などと思っていたが、
リーヴァフッド「境域に立つ」を読んで、考え込んでしまう。
もしも、世間でなにげなく使われている「エーテルっぽい」とか「エーテリアル」と呼ばれている質感を、
エーテル界に解消しないプラスチック状のエーテル体が作り出していて、
それがその人にとっては前世からの撹乱要素なのだとすると、
才能とか個性とか、もろもろの価値について考え直すときに、
頭の中が、なんか、ごちゃごちゃになる。

------------------------

タルコフスキーは少年と木で始まり、少年と木で終わる。
昔はそれを「エーテルっぽいよねー」などと評されると、
腹立たしく思ったりしていたのだが、
案外、的外れでもないのかもしれないのだ。

------------------------

エンデもどこかに書いていた気がするが、
うろ覚えなので自信がない。
シュタイナー芸術(の非常に多く)には、
見事なまでに、毒がない。
世間的な意味での「エーテル的」要素がない。
エーテル界を描いても、
実際エーテル感に満ちていてすら、
世間的な意味での「エーテリアル」な実感が、ない。

------------------------

子供のころ、家には「西洋の美術」という、何巻かに分かれた大きな書物があった。
市民の間で、百科事典などの大きな書物を本棚に飾るのが流行った時代だ。
その本のなかで、子供の私が、
「これだけがつまらない…なんでこれだけはこんなにつまらないんだ…
まったくこころに引っ掛からないじゃないか…」

と呆然と見つめていたのは、今思い出すと、
“建築編”に載っていた、第二ゲーテアヌムであった。

シュタイナー芸術や、
シュタイナーの黒板絵やメモなどが、
ほんとうにじわじわと生きたものとして自分に迫ってくるようになったのは、
実は、ごく最近のことである。
(皮肉なことなのか当然のことなのかわからないけれど、
“もの派”の物質自体の実感が切実に迫ってきたのも、最近である。)

その切実さは、夜の彼岸のジャケットに生かした。
「ああ、これでは商品の見た目としてとして引っ掛かりが弱い」とギリギリ悩みながら、
それでもあれを、描いた。
つまり、皮肉にも、
「非・エーテリアル」な質感を私に書かせたのは、
私の「エーテリアル」な部分である。
そしてさらに皮肉なことに、
私のエーテリアルな部分が非・エーテリアルに描いたのは、
おそらくは、エーテル的なものである。

------------------------

高橋巌「生命の教育」とも併せて読むと、
概ね、私には、以下のように読めてしまう。

―普通、人は概ね千年に1回生まれ変わってくるが、
ここ数百年、例外的に、やたらサイクルが早い。
―ここ数百年、唯物文化によって、人間のエーテル体に、いわばプラスチックのように、
エーテル界に解消されない部分ができやすくなっている。
それは、数百年も残る場合がある。
―人間が全く別人種・別文化・別民族に生まれ変わってきても、
そこに前世のエーテル死体の残存物が残ってる場合があり、
それが人間の意識や行動を撹乱する。
―それは神経症、拒食症など、現代に広く現象しているが、芸術の才能となるケースもある。
―それらは、いわば「新しいデュオニュソス」であるが、
古いデュオニュソスとは違って、新しいデュオニュソスには、
きちんと包括的に論じた文献が、まだ、存在しない。

こんな感じだ。
無論、離肉~受肉までの複雑なプロセスあってのことだけれど、
そのプロセスに影を落としているのは、
つまるところこの新型のデュオニュソスであるように思えてならない。
そしてこれは、シュタイナー本人は、
「非常に微妙な事柄」とか言って、
あまり言いたがらなかったことだと思う。

シュタイナーは、何を、言いたがらなかったのだろうか。
そして、なぜ、それを言いたがらなかったのだろうか。

トバル・カインのことが頭をよぎるが、
それは古いデュオニュソスの系譜となるはずだ。

私(達)、とりわけ技術/芸術をする人間は、
“それ”を、放棄できない。
むしろ、人生でもっともかけがえの無いものだと思っている。
それがもしも、人類にとって克服されるべきもので、
自分達が人類にとって克服されるべき種を撒いているのだとしたら。
芸術を享受する際にも、同じことがいえる。

そうやって考えていくと、
シュタイナーが言いづらそうにしていたことが、
おぼろげに判ってくる(気がする)。

しかし、私がこうして思い巡らすよりも、
事態は、ずっと複雑なのだろう。
リーヴァフッド「境域に立つ」にしても、
一体私に、書かれていることのどれほどが分かっているというのか。

椋鳥の音塊 

夕暮れ時になると、駅前にムクドリが来る。大量に。
街路樹をねぐらにするのだ。
あまりにも大量にくるので、
以前は街路樹をネットで覆ったり、
枝を切り落としたりしていたが、
最近では、それをやりすぎると、彼らが住宅街に行ってしまって、
住宅街で安眠被害が出たり、
あるいはかれらが住宅街に行くことをもあきらめてしまって、
駅前の道路の電柱に列をなして夜を過ごすようになってしまい、
却って道路に糞が落ちるようなことも起こることがわかってきた。

そんなわけで、街路樹の中で、ある程度糞が落ちたり、彼らが騒いだりしてもいいような、
そういう樹を選び出して、そこだけを防鳥ネットをかぶせずにおく、
そういうやり方が試みられていると聞いている。

タクシー/バス乗り場の、ロータリーの、一本の大きな街路樹に、
空からなだれ落ちるようにムクドリたちが舞い降りてくる。
葉っぱの奥は、もうムクドリで一杯になっているはずなのに、
まだまだ舞い降りてくる。どこまでも降りてくる。

ムクドリは、ギャァギャァと鳴く。
一本の樹木の奥で、数千羽が一斉に鳴くのだ。
それは一本の樹木が発する、巨大な音塊になる。

そんな猛然たる音塊であっても、
人と車と電車の行きかう駅前では、耳を澄まさないとうまく聴くことはできない。
人通りの中、樹木に向かって立ち止まり、手を両耳たぶに当てて集音し、
彼ら数千羽の絶叫の塊に耳をそばだてる。

静かな場所で、木々のざわめきを聴く時のような、豊穣な経験。

問題は、木々のざわめきと違い、彼らは温血動物であって、
情動から鳴いているに違いないということ。
私には豊穣な音塊に聴こえてしまっているけれど、
それで、合っているのだろうか。

彼らは、秋の夕暮れに、一斉に、何を叫んでいるのだろうか。

はじめてのCV-GATE、或いはDarkEnergy 

Doepferという会社の、
DarkEnergyというシンセを買ってきた。
これ自体が欲しかったというより、
二十余年触れずに音楽してきた、
CV-GATEというアナログ規格を経験したかったから、
という理由のほうが大きい。
だから単なるMIDI-CVコンバーターと、
MIDI-CVコンバーターとしても稼動するこのパッチシンセの、
どちらを買おうか迷ったくらいだ。

しかも店頭で、CV-GATEと言っても複数の規格があることを知り、
MIDI-CV専用コンバーターなら規格の違いを融通できるということを知り、
それらをお店に来てから知ったので、
先日舟沢が買ったXR-NoizboxIIがどういうCV規格なのかその場では判らず、
そのわからないCV規格のNoizBoxIIを接続するというのが最初の動機でいまこうしてお店に来てる、
要するに、最初の動機から言ったら、何を買ったらいいのかもはや判らないけれど、
どちらかというと専用コンバーターを買ったほうが正解率が高く、
買いたいとか勉強したいとか仕事に使えるとかいう意味では、
DarkEnergyを買ったほうが正解率が高い、という、
ひどく複雑で混乱する決断をその場で迫られる状況に陥った。

かなり精神的に消耗する選択だったが、
結局、DarkEnergyが魅力的な製品に思えたので、
こちらを買ってきた。
もしダメだったら専用コンバーターを新たに買い足そう、という考えだ。

で、DarkEnergyの音自体をチェックする前に、
マニュアルも見ないで、
こころに思うところを、
どばどばどばっと接続してみる。



第一の感想…
難っ

今日までモジュラー的なパッチングを避けて生きてきたけれど、
自分のような人間には、それはそれで正解だった気がする。
でも、とうとうこれを習得するところに自分がたどり着いた、ということ。
じわじわ抜き差ししつつ、学んでいきます。

それにしても、CV-GATEって1種類じゃなかったのですか。
(いや、どこかでは目や耳に入ってたんでしょうけれど、
全く馬耳東風で生きてきてしまいました)
単体のパッチングならまだ何とか覚えられそうですけど、
複数のシンセをつなぎ合わせるとなると…むっ…むずい…
追記/補足を読む

シンセフェスタ2010 

人ごみ嫌いでヒキコモリの舟沢ですが、
雨だからきっと人が少ないだろう、といった思いもあって、
シンセサイザーフェスタ2010というところに行ってきました。



感想は人それぞれでしょうし、
舟沢はセミナーやライブやイベントには参加せず、
ただただ客として見て回っただけなのですが、
非常に有意義な経験だったと思います。

新製品のシンセをあれだけ親切に説明してもらえて、
新旧併せてあれだけのシンセをしっかりしたモニター環境で試奏できるのは、
もうアキバを彷徨ったって無理なのではないでしょうか。
追記/補足を読む

「ユメノ道化」動画アップ 

連投になりますが。

11/3に舞踏公演夜踊ルを行う、
舞踏家点滅氏が、Youtubeにチャンネルを開設しました。

舟沢作品を踊ってくださっているシーンもアップされています。
こちらは舞踏作品「ユメノ道化」より。



音楽はアルバム「否定の果て」より、「女の爪と赤い月」。
iTunesだと、3曲目の「A woman's nail and a red moon」です。
追記/補足を読む

「虚の森」動画アップ 

11/3に舞踏公演夜踊ルを行う、
舞踏家点滅氏が、Youtubeにチャンネルを開設しました。

舟沢作品を踊ってくださっているシーンもアップされています。
これは舞踏作品「虚の森」より。


音楽はアルバム「否定の果て」より、「嵐の準備」。
iTunesだと、5曲目の「Prepare of tempestuous」です。
追記/補足を読む

何かの 報らせ 

昼に 日差しの中で見た クロアゲハが
夜になっても 心の奥で 強く 羽ばたいている