ジョン・ケージ体験と近所の犬 

ジョン・ケージ「ピアノと管弦楽のためのコンサート」を聴いていた。
(DVD「ジョン・ケージ」ULD-312。カット割りが判りやすいです)
聴いてる途中で、近所の犬が吠えた。

普段なら耳を通過して魂の奥にまで直撃する、
犬の怒りとか、恐怖とか、不安とか、威嚇とかが、
全く胸に届くことなく、「単なる犬の吠える音」に聴こえた。
つまり、曲の一部として、溶け込んで聴こえた。

音と沈黙を等価とするケージ先生、
音楽以外をすべて音楽にするケージ先生の音楽を聴いていると、
この世のほとんど全ての音がケージ先生の音楽に聴こえ始めると同時に、
確かに、何かが、聴こえなくなる。

それが何なのか、未だにはっきりとは判らずにいる。
サンプリングによる音の無意味化とも全く違う、あの体験。
“あの種の無音”は、ケージ作品とその周辺でしか聴いたことがない。
追記/補足を読む

夢実況 

うちを地デジ化したら、クリアに放送大学が映るようになって、
録画もできるようになった。
で、録りだめた放送大学ばかり見ている。
読書も、最近は実用書が増えている。

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私自身、心理学に詳しいイメージを持たれることがあるのだが、そうでもない。
芸術に分け入るため、そして自分の魂の問題に分け入るために、
必要な部分について、狭く学んでいるにすぎない。
なので、なんというか、心理学者に言わせると、
私という人間は、たぶん「基礎がない」ということになるに違いない。

現に、放送大学の様々な心理学の授業を見ていても、
知っている概念はほとんど出てこない。
自分が普段深入りしている心理学とは著しく違う世界に、
いささか違和感を感じつつ学んでいる。

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基礎的な、表面的な、計量的な、非-深層的な心理学を学んで、
かつ実用書ばかり読んでいたら、
夢が変化した。

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突然目の前に、
柔らかい桃紅色の、陽炎のように揺れる、
水平線の景色が広がる。
水平線の向こうには工場街があるようで、
プラントらしき幾何学的な建物が陽炎のように揺れている。
水面に映るのか、蜃気楼なのか、
水平線の下に、逆さに建造物が映っている。
まるで、印象派が抽象画を描いたような風景である。

突然場面が変わって、とても古い駅に私はいる。
コンクリートも朽ちかけていて、
階段も斜めになっている。
その駅の階段のところで、
浜崎あゆみと、犬が戯れている。
しばらく見ていると、
浜崎あゆみと犬は、マリオになってしまう。
目を横にやると、藪である。


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非-深層的な心理学を学び、その違和感の疲れから見る夢は、
非-深層的であった。
興味深いのは、その夢を、自覚的に見ながら、
ある程度積極的に変化させることができること。

夢を見ながら、自分で自分に、その夢を実況できてしまうのだ。

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あれ?この風景なに?あ、これ、夢?ああ、こないだ墓参り行ったときに海を見て、東京湾の向こう岸が見えて、今日は天気がいいなぁ、向こうの工場が見える、って思ったのが夢に出てるだけだわ。蜃気楼とかって砂漠でも海でも出るんだっけ、とか思ったわそん時。それが映像化されてんのかー。じゃぁなんでこの映像薄いピンクなの?あー、そういえば今日ビスコンティの「ベニスに死す」のラストの色について一瞬考えたわ思い出した。へぇー、あんなちらっと思ったことでも夢に出てくんのかー。無意識の願望とかじゃないじゃんこれ。あれ駅になったぞ?どここれ、あー、今日通った駅の階段で、この駅すごい古かったのを最近建てかえたんだよなー、と思ったっけ。でもこの映像は今日通った駅の建てかえ前より、子どもの頃の駅に近いよな。そっか古い駅の連想でこういう昭和にありがちな駅の映像が生じてきたわけなのね。へぇー。ってなんで浜崎あゆみ?あー、そういえば今日仕事中に浜崎あゆみって人はツイッターやってるって聞いたなー、ってふと思ったっけ。で犬と猫についても考えるともなしに考えたよなー。たったそれだけで浜崎あゆみと犬が遊んでる映像がこんなにクリアに発生するのかー。すげーなー。これって夢なんだろ?で、オレいまこうしてそれを自覚して観察してるだろ?ってことはこの映像、自力で変えられるんじゃね?そうだな、マリオになれ、と念じてみるか。おー。マリオになった。おもしれー。モーフィングとも水面に映るのとも違って、すべての線が糸が解けるみたいにふにゃふにゃになって、マリオに変化したわ。この変化のしかた、CGでも見たことないわー。すげー。ほかどうなってんの?あー、今日の帰り道の脇にあった藪がここにあんのね。

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で、目が覚めた。

なんとくだらない。
どんな象徴もなく、ただの些細な印象が映像化されているだけじゃないか。
どこにも魂の困窮が顕われていない。
いや、しいて言えば、表層意識のような浅い部分の心理学を学び、
実用書を読んでいることで、
魂の奥のほうが困窮して、
実用的でないイメージを求めてこの映像を作り出したんだろうから、
要望があってみてるっちゃぁ見てるんだが、
それにしたって見てる最中に実況で解釈できるような浅はかな夢を見るかー。
ああ、下らないなー。
と思ったのであった。

そういえば、やけに浅い次元のものごとを、
非常に精緻に作品にするタイプの芸術家がいるが、
あれはこういう魂のニーズというか、
そういう意識が常態と化している人がやってるんだろうなぁ。
まぁ、深い場所のことをやれば偉いってわけでもないかもしれないしなぁ。
そういうのを価値が低いとかって思っちゃいけないよなー。

うんうん、ひとつ勉強になった。
そう思ったのでありました。

クラクション連打の正体 

前回とやや似た話になるけれど。

家の近所で、しばしばクラクションの連打が聞こえる。
同じ音のクラクションが同じ間隔で、
「バッ、バッ、バッ、バッ、バッ、バッ、バッ」と、
数十秒~長いときは1分くらいは聞こえてくる。

一体どんな怖い人が近所に住んでるんだろう、
そう思っていたのだが、最近、ついに、その正体を見た。

帰り道で、いつも聞くクラクション連打が至近距離で轟く。
驚いて鳴っているほうを見る。
にこやかな主婦である。

けたたましいクラクション連打の中、
にこやかな主婦とにこやかな主婦が、
にこやかにお別れの会話をしているのだ。
クラクションで聞き取れないが、表情や様子から、
「じゃあまたね、今度会うときはさぁ」、
そんな感じの会話であろうことが読み取れる。

なぜこのような状況が生じるのか。
主婦と主婦は、おしゃべりが何よりも重要で、
おしゃべりを止めることがもはや自分達ではできないらしい。
片方の主婦がもう片方の主婦を、車から送り出しているらしい。
そして、送り出しながらも、おしゃべりをやめられないでいるらしい。
そして、この車、どうやら、
エンジンをかけたまま一定時間以上助手席が開きっぱなしだと、
警告音としてクラクションを鳴らしっぱなしにする仕様らしいのだ。


・話し足りなければ、十分に停車状態でおしゃべりしてから別れればよい。
でも、それが、できない。
・外へ出ても話し足りないのなら、ドアを閉めて、自分も外に出て話し続ければよい。
でも、それが、できない。
・どうしても助手席のドアを開けっ放しでおしゃべりを続けたいのなら、警告音クラクションが自動で鳴らないように設定を変えればよい。
でも、それが、できない。
・そもそも、エンジンを切れば、クラクションも止まるのではなかろうか。
でも、それが、できない。

かくして、半径数十メートルの住民に、
「一体何が起きている?近所に怖いひとが住んでるのか?」
という緊張感を連日振りまきながら、
おしゃべり好きの主婦たちのおしゃべりは続いていく。
クラクション連打が他人に迷惑だということがわかっていて、それでもおしゃべりがやめられないのか、
それとも、そもそもおしゃべりに夢中で耳元のクラクション連打が意識に入らないのか、それはわからない。
とにかく、はちきれんばかりの笑顔の主婦が、クラクション連打の中、何度も手を振りながら、別れのおしゃべりを続けている。

これ、クラクションが迷惑であることが解らないはずはないし、
鳴らさない工夫ができないはずも無い。
それでも、当人達は、おしゃべりもクラクションも、止められない。
厳然たる事実として、とめられない。

街中でこういう事態が生じるわけだから、
何かできる人がいるとすれば、
気を利かせたご主人が設定を変えるとかでなければ、
あとはメーカーさんだと思う。
クラクションとは別の防犯用警告音を鳴らすようにするとか、
警告するまでの時間設定をもう少しのばすとか。

なにしろ当人たちが連日クラクション連打が轟くことを気にとめずに、
おしゃべりに興じているのだから、
誰かがなんとかすべきだと思う。

こんど見かけたら「静かにしろ」って言ってみようか。
…いや、無駄だろうな。むしろこっちが暴漢と思われそうな様子だった。

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以前も似たようなことを書いたと思ったのだが、思い出した。
携帯やデジカメのボタン操作音であった。
「ボタンの音だけ消す方法がわからない」とか言われて、
何度も身の周りの人の携帯のボタン操作音を消した。
ああいう音は、工場出荷時にヴォリュームをゼロにしておくべきなのだ。
メーカーは、消費者が求めるよりもずっと細かく音について考えるべきだ。
音はその製品を購入した当人以外にも大きな影響を与えるのだから。