白木蓮 蕾 


――Magnolia heptapeta

千葉県北西部にて 

深夜の余震で飛び起きるところをみると、
まだ交感神経が“オン”の状態のようですが、
とりあえず、舟沢、無事です。

舟沢宅では、いくつかの家具が破損しました。
宮城県の親戚には、家を流されてしまった人もいると聞きました。

肌身の実感としては、地震当日より翌日、
翌日よりそのまた翌日と、
街ゆく人々が苛立っているように感じます。
おそらくは停電と鉄道の不通、ガソリン、
そして物流の滞りと食料などの買占めによるものでしょう。
爆発的な感情を込めたクラクションなどを耳にすると、
大きな音を出す人間の責任について考えます。
耳は閉じることができません。
感情は音に乗り、
その音は電気増幅されて拡散します。

とはいえ、これはクラクションのような電気増幅音に突出する現象で、
今、むやみやたらに「静かにしろ」と言うつもりはありません。
ストレスがかかればかかるほど、
より大声に、よりおしゃべりになる体質の人も多いようです。
いつもよりはるかに大声で取り留めのないことをしゃべり続ける主婦の集団を見ていて、
これは仕方のないことかもしれない、とも思います。

ストレスによる興奮や、日常の崩壊自体を、
ある種、快感に感じる人もいるようです。
これについて激怒する人の気持ちもよくよくわかりますが、
犯罪に発展しない程度ならばある程度致し方のないことかもしれない、
そう思ったりしています。
今日、市街地へ出たところ、
極端に着飾った若い女性が奇声を上げていたり、
若者の集団が駅の階段に座り込んだりしていました。
ある種の若者にとっては、
これが開放感を感じる出来事であることは、
理解できなくもありません。
さすがに歩道をバイクで走る笑顔のカップルには、
少々不快感を覚えましたが、
まことしやかに流れる、またそのいくばくかはきっと事実であろう、
この事態を利用した犯罪よりはましというか、
拡声器を使わない奇声程度なら、
ストレスのガス抜きのため、容認も致し方あるまい、
そう思ったのでありました。

まさに地面がずれるように、
人々全体がストレスで少しずれ、
それはある程度開放しないと不健全であるし、
度が過ぎた開放は抑制すべきだし、
そのジレンマを制御する上部構造はあまりありません。
公的機関の限度を越えていることは明らかです。

一呼吸できる人は一呼吸。
その一呼吸が、実は人々全体にとっては、
非常に強い治癒力を発揮するのかもしれません。

祈りというものは、
祈る内容がなく、
祈る対象もないときに、
最も深く、確実なものとなる、
と、ある学者さんに教わったことがあります。
今回、その意味が分った体験をしました。
「○○よ、どうか○○してください」
の、○○が全くない祈り。
これはことのほか力強いものだと知りました。

無論、できることは、やります。
あと片付け、節電、不要不急の買い物をしない、
親類の世話、信頼できる機関への募金、等々。

徒歩の帰り道、
梅が咲き、
木蓮のつぼみがほころび始めていました。

春が近いのです。

NaDiff系列店で取り扱い中断のお知らせ 

NaDiff―ナディッフの系列店にて、
舟沢作品の取り扱いが、中断されました。

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これは舟沢にとってナディッフの窓口が渋谷のナディッフモダンであること、
ナディッフモダンが入っている東急Bunkamuraが改築のため一旦閉店することに拠るものです。
販売再開の見込みは、これを書いている現在、まだ立っておりません。

これにより、公式サイトの舟沢作品の取扱店リストも、更新されております。

わかる 

神に裏切られた人間が暴れだす場合と、
神に裏切られた人間が働きだす場合。
どちらが異常かといえば働きだす場合に決まってるが、
20世紀半ばの日本では、それが起った。
そのことは、20世紀末の神戸において暴動が起きなかったことと、同根である。

宗教と労働が入り混じる特殊な民族。
それを論じた人物も、もはや鬼籍に入ってしまった。

本当の裏切りを経験したことのない人間もいる。
そういう人間がどれほどいて、
どれほどの人間がほんとうの裏切りを経験しないで生涯を終えるのか、
私は知らない。

自我が破壊されるまで、裏切りは続く。
自我が破壊された時、裏切られた者にとって、裏切りは、終わらないものとなる。

健康とは、暴力である。
暴力が、永遠の不健康を生み出す。
永遠の不健康は、光である。
つまり、宇宙が「光あれ」と始まったそもそもの始まりから、
裏切りは始まっているともいえるし、
「光は闇の中で輝いていた。闇はこれに気付かなかった」
というときの「闇」とは、健康のことだともいえる。

暴力も不健康も、私は、肯定しない。
しかし、暴力と不健康が、宇宙と世界と社会を動かしている。
それを実感として完全に体験すること、
すなわち自我が破壊される経験は、どうやらかなりの人々に、
「わかる」
と呼ばれている。
大人になる、ということでもあるし、
人であることをやめる、ということでもある。

人であることをやめることと大人になることが同じである状態というのは、言葉で説明すると矛盾してしまうので、言葉で論理的に説明されることはほとんどないし、言葉で論理的に説明されても、自我が破壊された経験がない人には、判らない。
なので、ほとんどの場合、
「わかる」
とのみ呼ばれる。

「いつかわかる日が来る」
などと言われるとほんとうに腹が立つものだが、
わかる日が来るとは、限らない。
わからないまま生涯を閉じる人も沢山おられるし、
それが不幸なこととは、思わない。
それに、比較的若いうちに「わかって」しまった人は、
往々にして、不幸にも見える。

20世紀後半の日本は、人々のほとんどが、
「わかりたくないから」発展したのかもしれない。

暴力も不健康も、私は肯定しない。
むしろ激しく、憎む。
このように、平和のための戦争は、
個人の内面でもやむことはない。

これは、悪ふざけではない。