未整理な雑感
忙しい。
ここ数年で、ここ数週間が一番忙しい。
忙しいので、思うところをつらつら書きため、
ある程度たまったら公開するつもりで、書いてみる。
------------------------
怒鳴られたり恫喝されたりしながらおとなになった。
そうではない教育方法を、特に社会に出てからは、殆ど経験していない。知らない。
人を怒鳴ったり恫喝したりしたくないので、
なるべく後輩を作らずに生きてきた。
今になってそのしわ寄せがきているのかもしれない。
人生後半は「生きてこなかった自分」を生きたくなるものだ、という話を聞く。
だが、人生後半を怒鳴ることに使っても、私自身も、周りの人々も、
きっと、育たない。
非常に多くの人々が、自らの“自動的なるもの”が原因で、死を迎える。
自分の自動性と、どう向き合えばいいのか、
いくつになってもわからない。
こう言ってよければ、グルジェフだってみずからの自動性との
闘争の果てに事故ったのではないか。
いったいどうしたものか。内省は続く。
“潜在意識ではない無意識”のことをなんと呼ぶのだろう。
心理学をかじってもなかなか体系的なものは出てこない。
もしかしたら出てきているのかもしれないが、憶えていない。意識化できない。
読んでいるのに意識化できないのならば、それはきっと、
私にとってそれが“潜在意識ではない無意識”だからだろう。
“潜在意識ではない無意識”ほど、恐ろしいものはない。
歳をとるほど、そのことは思い知らされていく。
------------------------
「学びたい」と思うことは多い。
「学ばなければ」と不安に駆られることも多い。
しかし、昔読んだ本を読み返すと、
「こんなことがが書いてあったのか」と驚く。
驚くということは、本を濫読してきたけれど、
じつは、ほとんど何も学んでいなかったということかもしれない。
これからは、じっくり、丁寧に本を読んでいかなければ、
ほんとうの学びをしなければ、と思う。
そんな中、老眼が始まった、らしい。
------------------------
読む本や、観るTV番組が、
どんどん初歩的なものになってきている。
小中学生レベルの数学の本。
発達障害をもつ小中学生向けの、コミュニケーション教育番組。
本当のほんとうに苦手なものを分ろう、と追いかけていくうちに、
初歩の初歩にたどり着いた。
発達障害の本などを読むと、
「本当のほんとうに苦手なものをできるようになろうと努力してしまうと、
苦手なものを苦しむだけの一生になってしまうので、
苦しまなくてもうまくいく工夫を考えましょう」
というようなことが書いてある。
そうか。最近は30年も40年も苦しむ前に、
あらかじめそういうことを教えてくれる時代になっているのか。
それどころか、こうして書物や教育番組になっているということは、
最近は学校の先生も、クラスメートたちに混じって、
他人とは少し違う個性を持った生徒に向かって、
何がどう違ってるのか教えもせずに、
「おまえみたいなにんげんがどこにいる?
おまえみたいなにんげんは、どこにもいやしないだろ?
おまえ、にんげんじゃないんじゃないのか?」
とは言わなくなっているのかもしれないな。
(蛇足になるが、私は「発達障害」という診断を受けているわけではない。
近所の精神科医に訊いてみたら、「君はそういうのとは違うタイプだと思うし、
“発達障害”と診断したって、治す薬があるわけでもないよ?」との事。
調べたら、発達障害の診断には医師の認識の差や、
地域の方針の差が非常に大きいらしいし、
治す薬があるわけでもないので、自力で調べて自力で勉強して自力で判断して
自力で対処法を考えるのと、私の住んでいる地域では大差ない、らしい。)
------------------------
若い人の話を聞く機会が増えてきた。
若い人からその世界観を聞くのは、とても勉強になる。
いまの時代の普通の人にとって、音楽とはどういうものかとか、そういう話。
どうも話を聞いていると、いまの若い人にとってクラブというのは、
ふっと一人で行って、飲み食いして、体を動かしたければひとりで動かして、
淡々と帰ってくるような場所らしい。
ナンパだけをしにくる男や、ケンカだけをしに来る男、
ナンパされることを楽しむ女や、注目されていると思い込みたい女、
徒党を組んで蛮勇を誇りに来る集団、
そういった醜態の渦は、もうほとんどないらしい。
クラブは、クラブ音楽を体験する場所になったのかもしれない。
実際に体験してみる時間は、作れそうにない。
------------------------
よく、音楽を生み出すことを、
「ゼロを1にする」
というが、これが非常な葛藤をはらんでいる。
ゼロを1にしたら、それは他人にとっても1なのか。
本人にしか分らなかったら、それはゼロのままではないのか。
先日、私が1980年代に弟子入りしていたシンセサイザープログラマー氏が、
アナログシンセの音色生成を主体とするライブを行なった。
ユーストリームで見ていたら、今でも、
私の何倍もシンセサイザーが高価で、そのプログラミングは何倍も巧くて速くて複雑だった。
と同時に、いまの自分がやろうとしている事とは違うジャンルの音だ、とも思った。
私が1にするゼロと、その人が1にしているゼロは、似ていない。
私は自分のシンセサイザーのシステムを複雑化すべきか、高価化すべきではないか、
という悩みを抱いているが、それがほんの少しだけ、緩和した。
複雑化や高価化をめざしても、
複雑さや高価さでは、到底勝てない人がいる。
そして私がやろうとしていることの本質は、複雑さや高価さの中には、ない。
------------------------
「元型ドローン」という名前が何に由来していて、
私が何をやろうとしているのか、
言葉で説明すべきかどうか、考えている。
説明しなければ分らない方も、きっとおられる。
が、コンセプトの解説など、無粋かもしれない、
そう思って、語ることを迷い続けている。
もうしばらく、迷い続けることにしよう。
ここ数年で、ここ数週間が一番忙しい。
忙しいので、思うところをつらつら書きため、
ある程度たまったら公開するつもりで、書いてみる。
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怒鳴られたり恫喝されたりしながらおとなになった。
そうではない教育方法を、特に社会に出てからは、殆ど経験していない。知らない。
人を怒鳴ったり恫喝したりしたくないので、
なるべく後輩を作らずに生きてきた。
今になってそのしわ寄せがきているのかもしれない。
人生後半は「生きてこなかった自分」を生きたくなるものだ、という話を聞く。
だが、人生後半を怒鳴ることに使っても、私自身も、周りの人々も、
きっと、育たない。
非常に多くの人々が、自らの“自動的なるもの”が原因で、死を迎える。
自分の自動性と、どう向き合えばいいのか、
いくつになってもわからない。
こう言ってよければ、グルジェフだってみずからの自動性との
闘争の果てに事故ったのではないか。
いったいどうしたものか。内省は続く。
“潜在意識ではない無意識”のことをなんと呼ぶのだろう。
心理学をかじってもなかなか体系的なものは出てこない。
もしかしたら出てきているのかもしれないが、憶えていない。意識化できない。
読んでいるのに意識化できないのならば、それはきっと、
私にとってそれが“潜在意識ではない無意識”だからだろう。
“潜在意識ではない無意識”ほど、恐ろしいものはない。
歳をとるほど、そのことは思い知らされていく。
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「学びたい」と思うことは多い。
「学ばなければ」と不安に駆られることも多い。
しかし、昔読んだ本を読み返すと、
「こんなことがが書いてあったのか」と驚く。
驚くということは、本を濫読してきたけれど、
じつは、ほとんど何も学んでいなかったということかもしれない。
これからは、じっくり、丁寧に本を読んでいかなければ、
ほんとうの学びをしなければ、と思う。
そんな中、老眼が始まった、らしい。
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読む本や、観るTV番組が、
どんどん初歩的なものになってきている。
小中学生レベルの数学の本。
発達障害をもつ小中学生向けの、コミュニケーション教育番組。
本当のほんとうに苦手なものを分ろう、と追いかけていくうちに、
初歩の初歩にたどり着いた。
発達障害の本などを読むと、
「本当のほんとうに苦手なものをできるようになろうと努力してしまうと、
苦手なものを苦しむだけの一生になってしまうので、
苦しまなくてもうまくいく工夫を考えましょう」
というようなことが書いてある。
そうか。最近は30年も40年も苦しむ前に、
あらかじめそういうことを教えてくれる時代になっているのか。
それどころか、こうして書物や教育番組になっているということは、
最近は学校の先生も、クラスメートたちに混じって、
他人とは少し違う個性を持った生徒に向かって、
何がどう違ってるのか教えもせずに、
「おまえみたいなにんげんがどこにいる?
おまえみたいなにんげんは、どこにもいやしないだろ?
おまえ、にんげんじゃないんじゃないのか?」
とは言わなくなっているのかもしれないな。
(蛇足になるが、私は「発達障害」という診断を受けているわけではない。
近所の精神科医に訊いてみたら、「君はそういうのとは違うタイプだと思うし、
“発達障害”と診断したって、治す薬があるわけでもないよ?」との事。
調べたら、発達障害の診断には医師の認識の差や、
地域の方針の差が非常に大きいらしいし、
治す薬があるわけでもないので、自力で調べて自力で勉強して自力で判断して
自力で対処法を考えるのと、私の住んでいる地域では大差ない、らしい。)
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若い人の話を聞く機会が増えてきた。
若い人からその世界観を聞くのは、とても勉強になる。
いまの時代の普通の人にとって、音楽とはどういうものかとか、そういう話。
どうも話を聞いていると、いまの若い人にとってクラブというのは、
ふっと一人で行って、飲み食いして、体を動かしたければひとりで動かして、
淡々と帰ってくるような場所らしい。
ナンパだけをしにくる男や、ケンカだけをしに来る男、
ナンパされることを楽しむ女や、注目されていると思い込みたい女、
徒党を組んで蛮勇を誇りに来る集団、
そういった醜態の渦は、もうほとんどないらしい。
クラブは、クラブ音楽を体験する場所になったのかもしれない。
実際に体験してみる時間は、作れそうにない。
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よく、音楽を生み出すことを、
「ゼロを1にする」
というが、これが非常な葛藤をはらんでいる。
ゼロを1にしたら、それは他人にとっても1なのか。
本人にしか分らなかったら、それはゼロのままではないのか。
先日、私が1980年代に弟子入りしていたシンセサイザープログラマー氏が、
アナログシンセの音色生成を主体とするライブを行なった。
ユーストリームで見ていたら、今でも、
私の何倍もシンセサイザーが高価で、そのプログラミングは何倍も巧くて速くて複雑だった。
と同時に、いまの自分がやろうとしている事とは違うジャンルの音だ、とも思った。
私が1にするゼロと、その人が1にしているゼロは、似ていない。
私は自分のシンセサイザーのシステムを複雑化すべきか、高価化すべきではないか、
という悩みを抱いているが、それがほんの少しだけ、緩和した。
複雑化や高価化をめざしても、
複雑さや高価さでは、到底勝てない人がいる。
そして私がやろうとしていることの本質は、複雑さや高価さの中には、ない。
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「元型ドローン」という名前が何に由来していて、
私が何をやろうとしているのか、
言葉で説明すべきかどうか、考えている。
説明しなければ分らない方も、きっとおられる。
が、コンセプトの解説など、無粋かもしれない、
そう思って、語ることを迷い続けている。
もうしばらく、迷い続けることにしよう。
- [2011/07/16 13:06]
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味
かなり永い間、「幸せになんかなるもんか」と思って生きてきた。
が、幸福(感)の拒否もまた、ある種の逃避でありうることに気付いた。
が、得がたい充実した幸福(感)を知ると、
それ以外の日常が、ずっとキツいものになる。
わが禅師の言う人生の「味」とは、
じつはこのキツさのことなのかもしれない、と思った。
が、幸福(感)の拒否もまた、ある種の逃避でありうることに気付いた。
が、得がたい充実した幸福(感)を知ると、
それ以外の日常が、ずっとキツいものになる。
わが禅師の言う人生の「味」とは、
じつはこのキツさのことなのかもしれない、と思った。
- [2011/07/08 15:25]
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ノイズはノイズかのメタ音楽的側面
ノイズとは何か、という場合、
音楽だと大きく2種類に分けて考えることが多い。
・音程をもたない音。
・好ましくない音。
ノイズを音程をもたない音(もしくは音程が重視されない音)と考えた場合、スネアもシンバルもノイズだということになる。音楽に取り入れられて全く問題ない。ノイズミュージックのみならず、ドラムループのようなものも、ノイズのみで成立している音楽と呼びうる。
ノイズを好ましくない音と考えた場合、ノイズは音楽を邪魔する音、ということになる。モーツァルトを聴いてるコンサート会場で、誰かの携帯からバッハの着メロが鳴り出したなら、その時、それは、ノイズである。
大まかに言ってこの2つがノイズと呼ばれるわけだけれど、その中間地帯のノイズもないわけではない。
アナログテープのヒスノイズや、アナログレコードのトレースノイズなどである。
それはある種の人にとっては「好ましくない音」であり、どれほど低下させることができるかに心血が注がれる。
またある種の人にとっては「楽曲の一部」であり、それが混じっていないことが「つまらない」と感じられる。
これは作り手にとっても同じことで、アナログレコードのノイズをCDに入れたり、アナログテープのヒスノイズを利用して音を作ったりすることは、特に珍しいことではない。
いわば、「好ましくない音」を利用して「好ましい音」を作るのだ。
この、「好ましくない音(ノイズ)」を利用して「好ましい音(ノイズ)」を作る衝動の極端なものというべきか、はたまたそれともまた別種の衝動というべきか、
「思いもよらない音を出したい」
とでもいうような衝動も、存在する。
「自分では想像もしていなかった音を出したい」という衝動。
「ノイズ」の語源を「あたらしきもの」だとする説などを使って説明される衝動だ。
そういう衝動の強い人は、ある種の「永久運動」のような状態に入る場合が多い。
どういうことかというと、
「自分では想像もしていなかったような音を出したい」と思って、
「自分では想像もしていなかったような音」が出たら、
それはつまり「思いどおりの音が出た」ことになるわけである。
「思い通りに、思いもよらない音が出てしまった。これでは思ったままじゃないか。ああ、思いもよらない音を出したい」
という半永久的な衝動。
この、「思いもよらない音を思い通りに出したい」という衝動にまつわる様々な問題は、ある種の音楽家/芸術家の間では、おなじみの問題である。明快に言語化された回答は、私の知る限り、まだ出ていない。
永久に思いがけない音を求め続ける人が、往々にして似たような音しか出さなくなってくるように聴こえてしまう問題についても、汎用されうる回答を、私は知らない。
------------------------
とあるコンピューター・プログラマー氏と話をしていて、
そのプログラマー氏が、「ノイズ」という言葉を口にした。
「ツイッターやRSSリーダーにおけるノイズ」
というような文脈である。
RSSリーダーやツイッターを使っていて、
自分が読みたくない記事や、自分にとって意味のないつぶやきのことを、
「ノイズ」と呼んでおられる。
聞いてみると、その言葉の使いかたは、プログラマーの間では一般的らしい。
「自分はRSSにいっぱいブログを登録してるからノイズが多めだ」とか、
「ツイッターの中から『おなかすいた』とかいう無意味なノイズをより分けて、『新しい基板が発売された』といった信号を読み取る」とか、
そういう言葉の使い方らしい。
その後、「自分にとって必要な情報ばかり摂取していると、知識や世界観がどんどん偏っていってしまう」という話になった。
すると、「そういう偏りを避けるために、メジャーなニュースアカウントなどもツイッターでフォローして、不要な情報も摂取するようにしている」とのこと。
そこで、ためしに、訊いてみた。
「自分が欲していない情報をノイズと呼ぶとして、
自分が欲していない情報を意図的に摂取して、
自分が欲するとおりに、自分が欲していない情報を摂取したら、
それは、ノイズなのでしょうか?」
プログラマー氏、ニコーッと笑って、
「するどいことききますねぇ。」
と仰せであった。
ノイズを欲したらそれはノイズなのか、
欲さないものを欲したらそれは欲したものなのか、という問題は、
芸術以外の分野では、けっこう新鮮な問題であるらしい。
------------------------
「思ってもいないことを欲する」というのは、
神秘学でいったらたぶん「ミカエル衝動」というのが一番近くて、
場合によっては「意識魂」とか、
あるいは学派によっては「水星作用」とかいうのかもしれない。
即興を始めた私にとっても、これから大きな問題になっていくのだろう。
上記プログラマー氏が言う場合のノイズについてあらためて考えてみると、
この場合はむしろ、ミカエル衝動の緩衝材ともとれる。
内と外というか、どこに自我を置くかという問題。
私の知る限り、答えはまだ、見つかっていない。
音楽だと大きく2種類に分けて考えることが多い。
・音程をもたない音。
・好ましくない音。
ノイズを音程をもたない音(もしくは音程が重視されない音)と考えた場合、スネアもシンバルもノイズだということになる。音楽に取り入れられて全く問題ない。ノイズミュージックのみならず、ドラムループのようなものも、ノイズのみで成立している音楽と呼びうる。
ノイズを好ましくない音と考えた場合、ノイズは音楽を邪魔する音、ということになる。モーツァルトを聴いてるコンサート会場で、誰かの携帯からバッハの着メロが鳴り出したなら、その時、それは、ノイズである。
大まかに言ってこの2つがノイズと呼ばれるわけだけれど、その中間地帯のノイズもないわけではない。
アナログテープのヒスノイズや、アナログレコードのトレースノイズなどである。
それはある種の人にとっては「好ましくない音」であり、どれほど低下させることができるかに心血が注がれる。
またある種の人にとっては「楽曲の一部」であり、それが混じっていないことが「つまらない」と感じられる。
これは作り手にとっても同じことで、アナログレコードのノイズをCDに入れたり、アナログテープのヒスノイズを利用して音を作ったりすることは、特に珍しいことではない。
いわば、「好ましくない音」を利用して「好ましい音」を作るのだ。
この、「好ましくない音(ノイズ)」を利用して「好ましい音(ノイズ)」を作る衝動の極端なものというべきか、はたまたそれともまた別種の衝動というべきか、
「思いもよらない音を出したい」
とでもいうような衝動も、存在する。
「自分では想像もしていなかった音を出したい」という衝動。
「ノイズ」の語源を「あたらしきもの」だとする説などを使って説明される衝動だ。
そういう衝動の強い人は、ある種の「永久運動」のような状態に入る場合が多い。
どういうことかというと、
「自分では想像もしていなかったような音を出したい」と思って、
「自分では想像もしていなかったような音」が出たら、
それはつまり「思いどおりの音が出た」ことになるわけである。
「思い通りに、思いもよらない音が出てしまった。これでは思ったままじゃないか。ああ、思いもよらない音を出したい」
という半永久的な衝動。
この、「思いもよらない音を思い通りに出したい」という衝動にまつわる様々な問題は、ある種の音楽家/芸術家の間では、おなじみの問題である。明快に言語化された回答は、私の知る限り、まだ出ていない。
永久に思いがけない音を求め続ける人が、往々にして似たような音しか出さなくなってくるように聴こえてしまう問題についても、汎用されうる回答を、私は知らない。
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とあるコンピューター・プログラマー氏と話をしていて、
そのプログラマー氏が、「ノイズ」という言葉を口にした。
「ツイッターやRSSリーダーにおけるノイズ」
というような文脈である。
RSSリーダーやツイッターを使っていて、
自分が読みたくない記事や、自分にとって意味のないつぶやきのことを、
「ノイズ」と呼んでおられる。
聞いてみると、その言葉の使いかたは、プログラマーの間では一般的らしい。
「自分はRSSにいっぱいブログを登録してるからノイズが多めだ」とか、
「ツイッターの中から『おなかすいた』とかいう無意味なノイズをより分けて、『新しい基板が発売された』といった信号を読み取る」とか、
そういう言葉の使い方らしい。
その後、「自分にとって必要な情報ばかり摂取していると、知識や世界観がどんどん偏っていってしまう」という話になった。
すると、「そういう偏りを避けるために、メジャーなニュースアカウントなどもツイッターでフォローして、不要な情報も摂取するようにしている」とのこと。
そこで、ためしに、訊いてみた。
「自分が欲していない情報をノイズと呼ぶとして、
自分が欲していない情報を意図的に摂取して、
自分が欲するとおりに、自分が欲していない情報を摂取したら、
それは、ノイズなのでしょうか?」
プログラマー氏、ニコーッと笑って、
「するどいことききますねぇ。」
と仰せであった。
ノイズを欲したらそれはノイズなのか、
欲さないものを欲したらそれは欲したものなのか、という問題は、
芸術以外の分野では、けっこう新鮮な問題であるらしい。
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「思ってもいないことを欲する」というのは、
神秘学でいったらたぶん「ミカエル衝動」というのが一番近くて、
場合によっては「意識魂」とか、
あるいは学派によっては「水星作用」とかいうのかもしれない。
即興を始めた私にとっても、これから大きな問題になっていくのだろう。
上記プログラマー氏が言う場合のノイズについてあらためて考えてみると、
この場合はむしろ、ミカエル衝動の緩衝材ともとれる。
内と外というか、どこに自我を置くかという問題。
私の知る限り、答えはまだ、見つかっていない。
- [2011/07/03 22:02]
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