自我に関する思考の断片
思考プロセスのメモの断片を編集、公開します。
プロセスの断片なので、信頼性は、低いです。
「独り言の断片の公開」程度にお読み下さい。
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自由と、楽園追放と、シュタイナー的な意味合いでのデーモン。
自由の可能性の出現によってデーモンが出現するのではないか。
ではデーモンの発生は誰が責任を持つのか。
自我の強制的発生によってデーモンが生じるのだとしたら、
人間が人間たる所以そのものが、デモーニッシュではないか。
自我の発生にはルシファーが関わる。
自我の認識にはサタン/アーリマンが関わる。
発生した自我が外界から根本的に破壊されるときに、
デーモンが生じるのではないか。
そのように考えるのは、メフィスト的だろうか。
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道元の正法眼蔵は、読みづらい。というか、正直、ほとんどわからない。
曹洞宗が大きな宗派たりえたのは、道元が偉大であったからだけではない。後に社会的才能に恵まれた人(たち)が、宗派として運営されうるように、いわば“自転”するように、轍をつけたのだ。道元という傑出した天才が“心身脱落”を実現したといっても、それだけで後の世の幾多の僧侶が生活できるようになったわけではない。“心身脱落”を実現しても、歴史に名前のない人物だって多いに違いない。
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私は、ウロボロスを、「見た」ことがある。
その状況を、言葉で説明できない。
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グノーシスは自我を裏切る。
無意識が自我を裏切るのではなく、自我が自我を裏切る。
自分で自分に嘘をつくことではなく、
自分自身が自分自身を、裏切る。
自我が自我に裏切られる瞬間を、言語化することは出来ないし、
芸術化することも私にはできそうにない。
この状況にやや近いことについて、
ユングは「言語化不可能」と書いていたと思う。
自我が社会に破壊される経験について。
オーウェルの1984ではネズミのシーン。
ゲーテのファウストでは恋人が死刑になるシーンだろうか。
(いや、ゲーテの場合は少し違う気がする)
それを生涯経験しないなら、
それはそれでよい人生かもしれない、と思うことがある。
グノーシス自体が自我の発生と深く関係しているのだから、
発生当初のグノーシスの信者たちの大半は自我の裏切りを経験しないで生涯を終えたに違いない。
(いま現在グノーシスを信じておられる方にお会いしたことがないので、いま現在のグノーシスについて、私は語るべき言葉を持たない。)
現代、どれほどの人々が、発生した自我の破壊を経験せずに人生を送られるのか、私にはわからない。
作品にもほとんどできないし、言語化もできないのだから、知りようがないのかもしれない。
これは、“大人になる”ということとは、ちょっと違う経験だと思う。
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オーウェルの「1984」は、未来を描いたのではなく、
人の一生を描いたのではないか。
そう考えるに至ったとき、
自分は、知ってはならないことに気付いたような気がした。
しかし、ある程度ネットを検索すれば、
むしろそう考えることのほうが普通といえそうな気配すら感じる。
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多様性は衰退局面において生じる、ようにも見える。
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本当の自分などというものは存在しない、という説には、いまもって得心が行かない。
だが、たしかに本当の自分が“ない”人は多い、気がする。
原理的に自我が“ない”のではなく、
自我が“ある”人と、“ない”人がいる、そのように感じる。
ヘッセの言う「額のしるし」。
ヘッセ自身、“青春の作家”と誤解される思いを書き残している。
(どこだったか、出典は忘れた。)
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本当にやりたいこと、というのは、本能では決まらない気がする。
もっと別の何かが加担しているように思える。
「自分の胸に聞いてみる」だけでは、
何かが足りない時があるのだ。
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ユングは研究の末、グノーシスの限界について言及していたらしい。
グルジェフは、後年、沈黙した。
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この限界を経験すること、
この限界を体験することを、
シュタイナーは「限界を設ける必要はない」と言ったのかもしれない。
いや、間違っているかもしれない。
プロセスの断片なので、信頼性は、低いです。
「独り言の断片の公開」程度にお読み下さい。
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自由と、楽園追放と、シュタイナー的な意味合いでのデーモン。
自由の可能性の出現によってデーモンが出現するのではないか。
ではデーモンの発生は誰が責任を持つのか。
自我の強制的発生によってデーモンが生じるのだとしたら、
人間が人間たる所以そのものが、デモーニッシュではないか。
自我の発生にはルシファーが関わる。
自我の認識にはサタン/アーリマンが関わる。
発生した自我が外界から根本的に破壊されるときに、
デーモンが生じるのではないか。
そのように考えるのは、メフィスト的だろうか。
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道元の正法眼蔵は、読みづらい。というか、正直、ほとんどわからない。
曹洞宗が大きな宗派たりえたのは、道元が偉大であったからだけではない。後に社会的才能に恵まれた人(たち)が、宗派として運営されうるように、いわば“自転”するように、轍をつけたのだ。道元という傑出した天才が“心身脱落”を実現したといっても、それだけで後の世の幾多の僧侶が生活できるようになったわけではない。“心身脱落”を実現しても、歴史に名前のない人物だって多いに違いない。
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私は、ウロボロスを、「見た」ことがある。
その状況を、言葉で説明できない。
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グノーシスは自我を裏切る。
無意識が自我を裏切るのではなく、自我が自我を裏切る。
自分で自分に嘘をつくことではなく、
自分自身が自分自身を、裏切る。
自我が自我に裏切られる瞬間を、言語化することは出来ないし、
芸術化することも私にはできそうにない。
この状況にやや近いことについて、
ユングは「言語化不可能」と書いていたと思う。
自我が社会に破壊される経験について。
オーウェルの1984ではネズミのシーン。
ゲーテのファウストでは恋人が死刑になるシーンだろうか。
(いや、ゲーテの場合は少し違う気がする)
それを生涯経験しないなら、
それはそれでよい人生かもしれない、と思うことがある。
グノーシス自体が自我の発生と深く関係しているのだから、
発生当初のグノーシスの信者たちの大半は自我の裏切りを経験しないで生涯を終えたに違いない。
(いま現在グノーシスを信じておられる方にお会いしたことがないので、いま現在のグノーシスについて、私は語るべき言葉を持たない。)
現代、どれほどの人々が、発生した自我の破壊を経験せずに人生を送られるのか、私にはわからない。
作品にもほとんどできないし、言語化もできないのだから、知りようがないのかもしれない。
これは、“大人になる”ということとは、ちょっと違う経験だと思う。
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オーウェルの「1984」は、未来を描いたのではなく、
人の一生を描いたのではないか。
そう考えるに至ったとき、
自分は、知ってはならないことに気付いたような気がした。
しかし、ある程度ネットを検索すれば、
むしろそう考えることのほうが普通といえそうな気配すら感じる。
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多様性は衰退局面において生じる、ようにも見える。
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本当の自分などというものは存在しない、という説には、いまもって得心が行かない。
だが、たしかに本当の自分が“ない”人は多い、気がする。
原理的に自我が“ない”のではなく、
自我が“ある”人と、“ない”人がいる、そのように感じる。
ヘッセの言う「額のしるし」。
ヘッセ自身、“青春の作家”と誤解される思いを書き残している。
(どこだったか、出典は忘れた。)
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本当にやりたいこと、というのは、本能では決まらない気がする。
もっと別の何かが加担しているように思える。
「自分の胸に聞いてみる」だけでは、
何かが足りない時があるのだ。
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ユングは研究の末、グノーシスの限界について言及していたらしい。
グルジェフは、後年、沈黙した。
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この限界を経験すること、
この限界を体験することを、
シュタイナーは「限界を設ける必要はない」と言ったのかもしれない。
いや、間違っているかもしれない。
- [2012/03/12 18:43]
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精神と市場
「神秘主義は絶えず新たに起る」と言ったのは宮沢賢治だったろうか。
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なぜ「神秘主義は絶えず新たに起る」かというと、それが絶えず滅ぶからであって、なぜ絶えず滅ぶかというと、起るたびにそこに市場が出現するからである。
それはR・シュタイナーが「賛同者による妨げ」と呼んでいたものの一種であろう。
また、シュタイナーは、人間の精神生活と人間の経済生活(そして国家生活)を、分節すべきだと説いた。
何らかの精神運動や芸術運動、芸術傾向のようなものは、いったん生起すると、市場(それはもちろん経済原理に属する)の出現それ自体によって衰退してしまうという、大きなジレンマを抱えている。
なぜ市場の出現によって衰退するかというと、そこに本質をもたないものが、大量に、遥かに洗練された形で追従してくるからでである。
つまり、高度に精神的なものは、ほとんどの場合、本来、経済原理・競争原理に、そぐわないのだ。
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R・シュタイナーの恐るべき読みにくさは、意図されたものだろうか。
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公開当時、A・タルコフスキーの上映館は、人で溢れかえっていた。
そして、9割がたの観客は、寝てた。
タルコフスキー本人が知ろうが知るまいが、タルコフスキー映画の上映の運営は、9割がたの「無意識的な人々」の入場料が支えていたし、タルコフスキーの映画は、その大半が、タルコフスキーの映画を理解しない人民の血と汗と涙の予算で出来ていた。
ああいう時代は、もう来ないかもしれない。
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これを書いている現在、ネット上に、「現代美術とはコンテンツをプレゼンテーションする方法の事で、つまり自作をいいものであるかのように上手に紹介することそのものが現代美術だ」、と教えている場所だか人だかがいるという怪談が出回っている。
真偽はわからないが、ありそうな話だと思う。
そして、それが“怪談”のように話題になるくらいには、美術はまだ健全だともいえる。
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そういえば、R・シュタイナー自身が、どこかで、「社会問題は永遠になくならない」と言っていた気がする。どこで読んだか、思い出せない。
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もちろん、悪いことばかりではない。
精神的な行動に対する、原価が下がった。
かつて、才能に溢れる若い人々が猛烈に安上がりの映画を撮るムーブメントで、
「一千万映画」というのがあった。
いま、一千万より、きっと、ずっと安い。
これを書いている現在、
ある程度精神性を保った作品を、ある程度運営として成立させているのは、
一人~数人であることが多い。
一人~数人が動ける範囲内であれば、
高度に精神的なことも、しばしば可能になりつつある。
“運営”は困難なままだし、
“精神だけがない洗練された類似品”に埋もれがちではあるが、
いずれにせよ、その時代、その状況で、やれることをやるしかない。
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やれることをやるしかないのだが、
やれることしか“しない”ということが、
しばしば怠惰であるかのような強迫観念にとらわれてしまう。
できないことをすべきなのではないかと。
その強迫観念にとらわれてじたばたしてしまうが、
じたばたしても仕方ないと、「じたばたしない努力」すらしてしまう。
そういった、じたばたするまいと葛藤すること自体も、
自分の歩みの一歩一歩である、ともいえなくもないが、
そういった“自分の歩み”という考え自体が、
ある種、自己肯定的な怠惰ではないか、という強迫観念も生じる。
この堂々巡りを自分で見据えることは、禅的である。
坐禅というのは、機嫌よく気分よくちょっとリラックスして坐る、
というのとはちょっと違ったものだと、舟沢は思っている。
そういった坐禅の紹介の中に、「市場」的な何かを感じてしまうのだ。
そうかといって、如浄禅師(道元禅師の師)みたいに「尻の皮が剥けても坐れ」というのも、中庸的ではないとも思っている。
つまりは、時代や世代や状況の中で、
やれることをやっていくしかないのかもしれない。
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こういった「ぐるっと回って一周」するような文章は、
あまり趣味ではなかったのだが、
最近、思考が非直線であることが多いし、
魂の中で起きていることをうまく言語化出来ない。
時代のせいかもしれないし、歳のせいかもしれない。
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なぜ「神秘主義は絶えず新たに起る」かというと、それが絶えず滅ぶからであって、なぜ絶えず滅ぶかというと、起るたびにそこに市場が出現するからである。
それはR・シュタイナーが「賛同者による妨げ」と呼んでいたものの一種であろう。
また、シュタイナーは、人間の精神生活と人間の経済生活(そして国家生活)を、分節すべきだと説いた。
何らかの精神運動や芸術運動、芸術傾向のようなものは、いったん生起すると、市場(それはもちろん経済原理に属する)の出現それ自体によって衰退してしまうという、大きなジレンマを抱えている。
なぜ市場の出現によって衰退するかというと、そこに本質をもたないものが、大量に、遥かに洗練された形で追従してくるからでである。
つまり、高度に精神的なものは、ほとんどの場合、本来、経済原理・競争原理に、そぐわないのだ。
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R・シュタイナーの恐るべき読みにくさは、意図されたものだろうか。
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公開当時、A・タルコフスキーの上映館は、人で溢れかえっていた。
そして、9割がたの観客は、寝てた。
タルコフスキー本人が知ろうが知るまいが、タルコフスキー映画の上映の運営は、9割がたの「無意識的な人々」の入場料が支えていたし、タルコフスキーの映画は、その大半が、タルコフスキーの映画を理解しない人民の血と汗と涙の予算で出来ていた。
ああいう時代は、もう来ないかもしれない。
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これを書いている現在、ネット上に、「現代美術とはコンテンツをプレゼンテーションする方法の事で、つまり自作をいいものであるかのように上手に紹介することそのものが現代美術だ」、と教えている場所だか人だかがいるという怪談が出回っている。
真偽はわからないが、ありそうな話だと思う。
そして、それが“怪談”のように話題になるくらいには、美術はまだ健全だともいえる。
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そういえば、R・シュタイナー自身が、どこかで、「社会問題は永遠になくならない」と言っていた気がする。どこで読んだか、思い出せない。
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もちろん、悪いことばかりではない。
精神的な行動に対する、原価が下がった。
かつて、才能に溢れる若い人々が猛烈に安上がりの映画を撮るムーブメントで、
「一千万映画」というのがあった。
いま、一千万より、きっと、ずっと安い。
これを書いている現在、
ある程度精神性を保った作品を、ある程度運営として成立させているのは、
一人~数人であることが多い。
一人~数人が動ける範囲内であれば、
高度に精神的なことも、しばしば可能になりつつある。
“運営”は困難なままだし、
“精神だけがない洗練された類似品”に埋もれがちではあるが、
いずれにせよ、その時代、その状況で、やれることをやるしかない。
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やれることをやるしかないのだが、
やれることしか“しない”ということが、
しばしば怠惰であるかのような強迫観念にとらわれてしまう。
できないことをすべきなのではないかと。
その強迫観念にとらわれてじたばたしてしまうが、
じたばたしても仕方ないと、「じたばたしない努力」すらしてしまう。
そういった、じたばたするまいと葛藤すること自体も、
自分の歩みの一歩一歩である、ともいえなくもないが、
そういった“自分の歩み”という考え自体が、
ある種、自己肯定的な怠惰ではないか、という強迫観念も生じる。
この堂々巡りを自分で見据えることは、禅的である。
坐禅というのは、機嫌よく気分よくちょっとリラックスして坐る、
というのとはちょっと違ったものだと、舟沢は思っている。
そういった坐禅の紹介の中に、「市場」的な何かを感じてしまうのだ。
そうかといって、如浄禅師(道元禅師の師)みたいに「尻の皮が剥けても坐れ」というのも、中庸的ではないとも思っている。
つまりは、時代や世代や状況の中で、
やれることをやっていくしかないのかもしれない。
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こういった「ぐるっと回って一周」するような文章は、
あまり趣味ではなかったのだが、
最近、思考が非直線であることが多いし、
魂の中で起きていることをうまく言語化出来ない。
時代のせいかもしれないし、歳のせいかもしれない。
- [2012/03/01 00:03]
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