悪についての不完全なノート 

高橋巖著「わたしの悪」読了。いくつもの重要な視点が提示されている、素晴らしい講演録。しかし、不遜ながら、「そんな甘いもんじゃない」と思うところもあった。
しかしよく考えてみれば、やはり高橋巌先生は、意図的に“真の悪の体験”について、口にしておられない印象も抱く。
思考をもって、論理的に、冷静に、高次の言葉で悪について語るのは、この辺が一つの極みなのかも知れないと思った。

片方が「私はイゾルデ、もはやトリスタンではない」と言い、片方は「私はトリスタン、もはやイゾルデではない」と言うとする。
どちらか片方が相手と一体化して命懸けで内なる核心に目覚めていて、もう片方が、もしも、相手を支配するために嘘をついているのだとしたら。

遠藤周作に「沈黙」という小説があるが、おぞましい悪と拷問の果てについに踏み絵を踏むに至った宣教師が、もしも、異端審問にかかったら。
さらに、異端審問官と、踏み絵を踏ませた奉行が、同一人物だったなら。

特攻隊に出征する若き隊員に、もしも上官が、こいつ何となく気にくわないという理由で、出撃方向を逆の方角に命令したら。そしてもし、方角を間違えさせた上官が、その隊員を「敵前逃亡」として処罰したなら。

――あえて荒唐無稽な「もしも」で、戯画的にたとえた。
しかし、これに類似したことは、世の中でしばしば起こる。
警察も労働基準監督署もなにもかも巧妙にかわしつつ、
他者から信頼を勝ち取っては、それを裏切って生きている人がいる。
営利目的ではなく、想像もつかないほど矮小な理由であったり、
あるいは、そもそも理由など無く、“ただなんとなく、それをやる”人がいる。

渾身で信じ、全身全霊を懸けてそれを行い、
考えられないほど矮小な理由で、裏切られる体験。
そういう経験は、多くの人が、しないまま生涯を終える。
それを経験したとしても、
自分が何を経験したのかを知覚できず、
ただただ衰弱して死んでいく人もいるだろう。

しかし、それを経験し、それを意識化した人の、
渾身の“悪の知覚”と、“その渾身の対処”の実際について、
その臨床的処方について、
私は、切実に、知りたいと思っている。

インターネット上には、ちょっと調べれば、
「俺が金で解決してやる」的なサイトが、いくつも出てくる。
どれも魑魅魍魎すぎて、話にならない。

前述の遠藤周作「沈黙」について、遠藤周作氏の友人でもあられた河合隼雄氏(故人・カウンセラー・元文化庁長官)は、それを絶賛しながらも、どこかで
「でも現実はこんな甘いもんじゃない」
と言っておられた記憶がある。(うろ覚え。出典の記憶が無い。)
よく、河合隼雄氏の著作に、「プロ野球だって3割打ったら一流だ」という言葉が出てくる。(草野球には5割以上もいるが、と。)
つまり、超一流のカウンセラーには、とびきり症状の重い人が訪れて、そのクライアントの7割ぐらいは、超一流のカウンセラーを持ってしても治らない、ということか。
(そういえば内科などの医療でも、名医のところには重症の人が行くので、患者の死亡率を計算すると名医の方が高い場合がある、と聞いたことがある。)

病気について、R・シュタイナーは
「治ることに感謝することが出来る。
治らずに死んだら、治らずに死んだことを感謝することが出来る」
と書いていたと思う。

悪は病気のようなものだろうか。
そんなような気もするし、違うような気もする。
R・シュタイナーは悪を「時期外れの善」と呼び、
悪魔についても、かなり詳細に語った。
しかし、その記述は、臨床的ではない。

“高次の認識に至る修行”として、
「自分が受けた体験を他人事のように観察する」
といった記述もあったと思う。
それはいわば、最近の言葉で言えば「スルー」であって、
真の悪のエネルギーには、容易に組み込まれてしまう。
(いまここに、容易に組み込む方法を書こうとしたが、悪用されたらたまらないので書かないことにした。)

真の悪は、思考では捉えられないのかもしれない、
観察の対象にはできないのかもしれないと、
いま私は思い始めている。

それでも、私は、悪について、切実に、考え続けている。

終了:舞踏公演「風楼」 

横滑ナナ ソロ舞踏公演「風楼
は、終了致しました。
ありがとうございました。
追記/補足を読む