かゆい→痛い→ピィ 

はじめは、「なんか足がかゆいな」程度の感じであった。
あまりにも微細な感覚なので、意識にも昇らない。
あれ、なんかかゆいな、と思って足を見るが、
見た目に何の異変もない。
なので数秒後にはもう忘れてしまっているような、
そんな微細な感覚であった。
あまりにも微細な感覚なので、
それが数週間続いていたのか、数ヶ月、数年と続いていたのかも、
もはや思い出すことができない。

ある日、あまりのかゆみに、路上でしゃがみこんでしまった。

しゃがみこみながら、初めて本気で考えるようになる。
歩けなくなるほど足がかゆい、というのは、
これは確かに、何かがおかしいのだ。
見た目に何の異変もないことだし、
皮膚科に行っても、相手にされないかもしれない。
これは一体何なんだろう。

自分の症状を基に、ネットで検索する。
「レストレスレッグス症候群」というのにぶち当たる。
メカニズムはよくわかっていないらしいが、
中年になって、神経伝達物質ドーパミンが減り、
脳の視床下部あたりで「足のかゆみ」を感じる、らしい。

薬がある、というサイトと、薬はない、というサイトがある。
さしあたって、目をひいた二つの記述。

・鍼灸やカイロプラクティックが効く。
・カフェインの摂取を控える。

最後にコーヒーを飲まなかったのはいつだったか、
もう思い出せない。
少なくとも3~5年ぐらいは毎日コーヒーを飲んでいるし、
カフェインを摂らない日となると、数十年なかったと思う。
思い立ったが吉日、コーヒーをやめてみる。

翌朝、足のかゆみが多少楽になると同時に、
猛烈な頭痛で目が覚める。
尋常ならざる頭痛で、これまた何かがおかしい。

ネットで検索してみる。
すぐに出てきたのは、
「カフェイン依存症の離脱症状」。

頭痛を抱えて、鍼灸師・カイロプラクターである、我が禅師の元へ。
禅師の鍼灸とカイロプラクティックで、
かゆみがさらに楽になる。

相当に楽になった足のかゆみと、残った頭痛に耐えつつ、
カフェイン依存が抜けるのを待つ。

1週間ほどして、頭痛が消えていくと共に、
ひどい耳鳴りがはじまった。
1KHz(高めのド)あたりの耳鳴りで、
外界の音に合わせて音量が上下する異様な耳鳴り。
誰かが「こんにちは」と言うと、その言葉と同時に、
「ピィピイピィ」と、
痛みを伴って聞こえている。
これではたまらない。仕事もつらい。

これまたネットで検索する。
耳鳴りの原因は多様だが、目をひいたのは、
「耳鳴りを静めるには、カフェインが効果的」
という記事であった。

どうしても仕事にならない時に、
コーヒーを半杯飲んでみる。
耳鳴りが半分になり、
頭痛も半分になり、
足のかゆみが戻ってくる。

つまり、
コーヒーを飲むと、足がかゆい。
コーヒーをやめると、頭が痛い。耳鳴りがする。
頭痛を和らげ、耳鳴りを止めるには、コーヒーを飲む。
コーヒーを飲むと、足がかゆくなる。

老化現象。
自分の肉体の有限姓。
もう緊張に緊張で対抗するような、
力業(ちからわざ)の生活には無理が来つつある。

頭痛に耐えつつ、
どうしても耳鳴りで仕事にならない時は、
足がかゆくなる覚悟でコーヒーを少し飲みつつ、
危ういバランスを取りながら数週間を過ごし、
今では耳鳴りと頭痛はすっかりなくなった。
足にはうっすら痺れたような感覚が残っている。
これも時間をかけて付き合っていかなければなるまい。

耳鳴りと頭痛が抜けたら、
聴覚がすっかり過敏になってしまった。
素人判断はよくないので一応耳鼻科にも行ったのだが、
防音の聴力検査室に入り、聴力検査用のヘッドフォンを着用しても、
室外の医師達の会話が聞こえてしまう。
シネコンで映画を見ても、
ななめ後ろの席のヒソヒソ話がうるさくてしょうがない。

耳鳴りもつらいが、耳が良くても色々と困る。
だが、私はこの過敏な耳のおかげで今日まで働いて来れたのだ。
この禍福も、あきらめつつ、受け入れつつ、
工夫して生きていくしかない。

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子どもの頃、
「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足の生き物は何か」
というスフィンクスのなぞなぞを知ったとき、
「なんというつまらないなぞなぞだろう」
などと思っていた。
三本目の足、杖というのは、
人生後半に発動する、人間の複雑な叡智のことだろう。
老眼鏡をかければ遠くが見えない。
近眼鏡をかければ近くが見えない。
遠近両用では見える範囲が狭くなる。
こういった有限性の認識と、そこでの複雑な工夫。

なるほどな、と納得しつつ、
参ったな、と困りつつ、
21世紀の複雑な社会を思いつつ、
世阿弥のことなどを思い出しつつ、
ノンカフェインのルイボス茶を飲むのであった。
追記/補足を読む

非・自然科学的思推 

共同体の内側とはどうしても相容れない出自を持ち、
共同体の内部とも外部ともわからない彼方で、
真っ暗闇を、歪んだ軌道で運行する。
写真を見ると、確かに“息をしている”としか思えない。
(なぜ静止画でありありと呼吸を感じるのかは、わからない。)
取り返しのつかない巨大な傷を負っているが、
それを見て人々は快哉を叫ぶ。

20世紀の頃には、「生きているうちに見れるのだろうか」と思っていた。
冥王星。
画像で見ることができて、大いに親近感を抱いた。

冥王星は、冥王星でない者たちに対して、
どのような影響を与えているのだろう。
どのような意思を持って、彼方を運行しているのだろう。