「沈黙 -サイレンス-」所感 

少し前、沈黙 -サイレンス-という映画を観ました。
マーチン・スコセッシ監督が、遠藤周作の小説「沈黙」を映画化しようとしている、
という話を聞いてから、もう何年もの間、
・あの原作がうまく映画化されなかったらどうしようという不安
・あの残酷な原作がうまく映画化されたらどうしようという期待と不安
その両方に苛まれてきました。

実際に観てみたら、あの残酷な原作が、
じつにうまく映画化されていました。
私はこの映画を、傑作だと思います。

本当にいい映画というのは、
観た後に自分が少し違う人間になったように感じるものです。
いい映画というのは、人生経験のようなものですから。

そして、深い人生経験をした後と同じように、
軽々しくその経験を語るものでもない、と感じています。
そもそも、私はこの映画を観終わった後、殆ど言葉を失ってしまい、
意識をどうにか平常運転に戻すのに、五日ほどかかってしまいました。
「あれ面白いぞー」と気軽に吹聴するような作品でもありません。

ですから、そのまま、ブログなんかに書かず、
それこそ“沈黙”していよう、と思っていたのです。

が、あちこちでレビューのようなものを見て回ると、
観た方の多くが、歴史としての側面、
宗教としての側面、東西文化としての側面、
そして国家や政治の側面から、
この映画を批評しておられます。

もちろん、そういう側面も大事です。
それらの側面から観ても、充分な説得力を持つよう、
入念に作られています。

ですが、この映画の本質を、
私としては別の所に見ていたので、
そのことをちょっと書いてみます。

(以下、多少のネタバレがあります)

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かつては、人間存在の不可侵なる部分というのは、
殆どの人にとって、特定の宗教であったのかもしれません。
言い換えれば、ある程度、共有できたのかもしれません。

しかし、現代に於いては、自分の全存在よりも大切なもの、
絶対に踏んではならないもの、踏むことができないものは、
私たち一人ひとりが、自分の奥深くに、
個別に持っているのではないでしょうか。
息を殺して隠し抜き、
時として、信頼できる人にだけ、命を賭けて、
そっと、開示したりしていないでしょうか。

そして、その存在に気付かず、
あるいは気付いてもそれがそれほど重大なものだと気付かず、
(あるいは半ば気付きつつ、)
それを踏むように仕組んではいないでしょうか。

そして、そうやってかけがえの無いものを、
踏まれてしまった人、踏まされてしまった人は、
自分以外の人が隠し持っている、
その人の深奥にあるかけがえの無いものを、
何とかして探し出して、
自分で踏みつけよう、あるいは本人に踏ませようと、
暗い情熱を燃やして人生を生きてはいないでしょうか。

内なる神殿を壊すこと。
内なる神殿を壊されること。

私は、この映画を、本質的には、
現代の私たちの問題として観ました。

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出演なさっている役者さんのインタビューをYoutubeで見ていたら、
とある役者さんが「これは使われないだろうけど」と前置きして、
「踏み絵は心のままに踏みたければ踏めばいい」としつつ、
原発をはじめとする時の政府の政策に対する強い批判を口にしておられました。

ところが、さらにネットを見回ると、
その政府の最高責任者、要するに現在の総理大臣が、
SPを引き連れ、この「沈黙-サイレンス-」を観たことが伺えます。
何件も目撃談が出てきます。

昨今の激務の中、SPをつれてわざわざ観に行ったということは、
これを書いている時点での現・総理大臣もまた、
おそらくは原作を読んでおり、
映画化されたのを知り、多忙の合間を縫って時間を作り、
強い意志で観に行ったという事だと推測します。

特定の誰かを批判したり擁護したりするつもりはありませんが、
その役者さんが批判なさっている、
原発の問題、弱者の問題などは、
今の総理大臣は、全部熟知なさっているのではないかと思うのです。
いま原発を止めたらどうなるか。止めなかったらどうなるか。
原発輸出を取りやめたら、それに関わる人々や、そのご家族はどうなるか。
原発輸出を取りやめたら、地球環境はどうなるのか。
(そのとき他国の原発輸出はどうなるか。その価格と信頼性は。)
経済が止まったら弱者はどうなるのか。
そういうことを、批判なさっているその役者さんより広範囲に知悉しおり、
その上で政治をやっておられるのではないかと思うのです。

ですから、もしもその役者さんの批判を、
今の総理大臣が耳にしたとしても、
「はい。私、踏み絵、踏んでます。」と心の中で思うのではないでしょうか。
役者さんが自らの良心・信念に従って、
「踏み絵は踏んだらいい」と言いながら、言葉で総理を踏みつける。
総理はそれをわかりきった上で、政策という踏み絵を踏む。
その政策は誰かを救い、誰かを踏みつける。
踏まれた人は、また別の誰かを踏むのかもしれません。

どこか途方もない遠く、あるいは思いがけないほど近いどこかで、
「踏むがよい。そのために私は生まれてきた。」
と、声がするような気がするのは、私だけでしょうか。

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演技や撮影についての賛辞は、ネット上にも多くありますので、
私からは、「音」への賛辞を送りたいと思います。

今の時代に、ここまでのサウンドスケープの録音は、
真に大変だったことでしょう。
Youtubeのメイキングを見ると、要所要所で後ろに
救急車らしきサイレンが入ったりしています。
クリアなサウンドスケープを長時間録ることは、
現代では不可能に近い難行のはずです。
サイレン、飛行機、バイクの音が数分経たずに入ってしまう。
一体どれほどの技術と忍耐が必要であったろうか、と思います。

そして、その繊細極まりないミキシング。
とりわけ、音の鳴り止み方の巧さ。

真に残酷な瞬間、人間の心の中で、音は、しばしば、鳴り止むのです。

終了:「元型ドローンVol.13」 

舟沢虫雄 (Mushio FUNAZWA)
電子持続音ライブ
「元型ドローンVol.13」
は、終了しました。
ありがとうございました。
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追記/補足を読む