社会の断片 

どうしても治らない欠点を持っている人。
その欠点を自ら口にして周囲に理解や配慮を請う人。
そういうことを口にする人が許せない、という欠点を持った人。
人の欠点を見つけたら、そこを攻撃せずにはいられない、
という欠点を持った人。

つくづく、生きていくのは難しい。

タロットカードお焚き上げ 

タロットカードを買ったのはいつだったろうか。

デザインは俗に言う「ブザンソン1JJ」。記憶を辿ると、小学校末期か、中学校初期だった。
どこで買ったか忘れたが、小中学生が近所から買って来たのだから、特に珍しい品物ではなかったろう。
最初に購入した当時の、高級な木のような、なんとも言えない不思議な香りをよく覚えている。
中学校2年か3年か忘れたが、文化祭であまりにも多くの人々を占って、
独特なめまいに陥って倒れた時の、目の前が深いオレンジ色のようになってみるみる昏くなっていく質感も、よく覚えている。

高校になっても、大学になっても、社会人になっても、
使い慣れたそのタロットをひたすら使い続けた。
自分を占うことは禁じている人も多いようだが、
私には自分の人生の諸問題も、タロットを大いに参考にしていた時期がある。

30代を過ぎたあたりだったか、徐々にタロットカードを使わなくなっていった。
それについて、一応後付けの理由は並べることは出来る。
引っ越しに伴い、女友達に喫茶店に呼び出されて恋占いをさせられるようなことがめっきり減ったこと。
関心が神秘学・心理学に移ったこと。
尊敬している神秘学者の先生から、
「水晶玉で占いが出来る人は、丸くて白い紙を目の前に置いても出来るのではないか」
といった言葉を伺ったこと。つまり、読み手の能力ほどには、媒体は重要ではないこと。
色々理由を並べることは出来るが、要するに「自然にやらなくなった」というのが一番現実に近い。

40代に入ったあたりで、時折、「もうタロット捨てようかな」と思うようになっていた。
ところが、なかなか踏ん切りがつかない。
12~13歳ごろからひたすら、切って、並べて、読み解いてきたカードだ。
約30年間、念と生命を込めてきたカードである。
もういいや、捨てよう、と手にとっても、
手に取った途端に、吸い付くように、たちどころに「自分の体と一体化してしまう」。
自分の手の延長上にそのまま生命を持ったタロットカードがあるのが、ありありと実感される。
これほどまでに念と生命をすり込んだカードを、
燃えるゴミで捨てるのもなんだか忍びない。
じゃあどこかで“お焚き上げ”でもしてもらうか、と思っても、
いつも通りがかる神社の年末年始を見ると、
「お焚き上げは当神社のものだけ」と張り紙が出ている。
これだけ念と生命(要するに四大)を込めた、
シャマニズムとカバラをごちゃ混ぜにして煮しめたような物を、
教会に持ち込むのもなんだか違う気がする。
さてどうしたものか、と迷う状態が、10年ほど続いたろうか。

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今年に入って、一念発起し、
「なんでもお焚き上げしてくれるお寺」をインターネットで見つけ、
電車とタクシーを乗り継いで、行ってきた。
そのお寺の名前は申し上げられないが、
行ってみてまず思ったのは、
「こんなに俗で大丈夫なのかここ」ということ。
明らかに「仏教のお寺」なのだが、
大きな看板と大きな駐車場を抜けて入ると、
中は鳥居だらけで、
小さな鳥居の奥には様々なものが祀られている。
お祭りをやっているビデオを流した液晶テレビが祀られていたり、
ゆるキャラらしき着ぐるみが祀られていたり。
そういう鳥居だらけのそのお寺全体に、
拡声器で大音量の雅楽が流れている。

変なとこ来ちゃったかな、とかなり戸惑うが、
ホームページで謳っていた「なんでもお焚き上げ・物品供養いたします」という説明、
ペットも火葬致します、時計のような金属の遺品もお焚き上げしますと、
写真で立派な炉を公開していたこと、
忙しそうにてきぱきと働く作務衣の皆さんなど、
とにかく遺品やペットなど、通常の神社仏閣が受け付けない供養を
受け付けることに強い経営的意志を感じたこと、
そういう場所だからこそ
「30年念を込め、10年捨てるのを迷ったタロットカード」
などという切実かつ珍奇な物品を受け付けてくれる筈なのだ、
と思い直し、受付に行く。
申込用紙を見てみると、項目に「タロットカード」はないので、
「その他」に印をつけて、受付に渡す。
受付の女性にタロットを入れた封筒を渡すと、
少し戸惑って「あの、中はどのような」と訊いてくる。
「タロットカードです」と言うと、女性達で相談し、
「その他」として受け付けてくれることになる。
私はてっきり、その場でお焚き上げするところを見られると思っていたのだが、
今日はやりません、という。
「いつ、どのようにお焚き上げして下さるのですか」と訊くと、
2~3日中に、読経と共に、確実にお焚き上げ致します、と言う。
ここまで来た以上、それを信じるしかあるまい。

タロットカードを渡し、料金を支払い、
拝殿で指定されたマントラのような口上を述べて拝み、
帰りはバスで帰ってきた。

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2~3日経った夕暮れ時、
道を歩いていた際に自分の身に起きたことを、
言語化するのは非常に難しい。
どこか比喩めいた描写にせざるを得ないし、
こういった経験のない人に正確に伝わるかどうか、わからない。
そして、「私も同じ体験をした」という人が現れたとしても、
その人が本当に私と同じ体験をしているのかも、
私にはわからない。

道を歩いていたとき、私は突然、
「タロットカードが自分を取り囲む」
とでも言うような体験をした。

強いてたとえるならば、
親しい人や親しかった動物が世を去った後、
唐突に非常にありありと“そこにいる”と実感するような、
親しみ深い体験。あれに近い。
が、そういう時のような「相手の親密な感情が流れてくるような感覚」はない。
あくまでも、ついこの間まで、ひとたび手に持てばたちどころに
「自分の一部」となるまでに念と生命をすり込んだタロットカードが、
私を取り囲んで、ありありと、先方の感情なしに、「在る」。
自分の延長であり、自分の外界への延長であると同時に、
外界からの自分に対する延長というか、ある種の贈り物であるかのように、「在る」。
(このへんは意味が取りづらいと自分でも思う。言語化が難しい。)

私はこの体験をしながら、
ああ、確かに今しがた、
タロットカードは“適切に”炎と共に地上での形を解消し、
そして今、自分の周りに適切に「在って」くれているのだ、
私の行動は、あれで正しかったのだ、という確信を得た。

とりわけ、ひときわ大きく見えたタロットカードが、
9番「隠者」であったことは、
私にとって意義深いことであった。
内面であり、同時に物質でもあった理念が、
いまや物質であることをやめ、
外界から私を囲んでいる。
そのひときわ大きいものが、「老賢者」。

この深い意味の実感、あるいは実感の意味を、
私は今でも言語化出来ずにいる。

そもそも、ここから先は言語化不可能な領域なのだろう。

そして人生は続く。
追記/補足を読む