「元型ドローンVol.17」ダイジェスト 

舟沢虫雄 電子持続音ライブ「元型ドローンVol.17」のダイジェストを、
Youtubeにアップしました。



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加えまして、お知らせが2つあります。

1つ目は、
この「元型ドローンVol.17」の音源を、
デジタルリリースしようと、現在模索中です。

詳細近日。お楽しみに。

もうひとつは、次..回ライブの日にちです。
10/27となりました。
よろしくお願いします。
追記/補足を読む

フロッピー、МО/メディアの中身 

家の中を掃除していて、
ふと、普段開けない引き出しを開けたら、
中が殆ど、フロッピーディスクとMOディスクだった。
フロッピーディスクドライブも、
MOドライブも、もう、持っていない。

それらのディスクを、不燃ごみとして捨てた。
全く、惜しくなかった。

あまりにも惜しくなかったので、
なぜこれほどまでに惜しくなかったのか、
考えてみた。

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そのメディアの中身はというと、
今までにリリースしたアルバムに使用した、
MIDIデータのバックアップや、
もう持っていないデジタルMTRのマルチトラックデータなど。

つまり、中身は“作品”ではなく、
作品となる前の途中経過のバックアップなどで、
もう使用する機会もないし、
それらのデータを展開する方法もない。

フロッピーやМОの中身が、
もっと大切な何かだったら、
少しは惜しかったのだろうか。
――そうだったなら、多少は惜しくなる気もしてくる。

フロッピーやМОの中身が、
どこか別の場所に移動できるとすると、
フロッピーもМОも、全く意味がないのだろうか。
――そう。少なくとも私にとっては、全く、意味がない。

つまり私にとっては、フロッピーも、МОも、
価値はその中身にあるのであって、
メディアそのものには全く意味がなかったわけだ。

このことは、恥ずかしながら、
フロッピーやМОを買い込んでいた時代には、
思いもよらなかったことである。

“中身にしか意味がないメディア”と、
“メディアにも中身が含まれているメディア”、
というものがあるわけだ。


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さて、ここで言う中身とは何か。

ここで私は、世の中にCDが普及し始めた時代のことを思い出す。
アナログレコードはCDに完全移行できるのかという、
当時盛んに議論された内容の中には、
“どちらが音がいいのか”という話だけではなく、
・ジャケットの大きさ
・針と落とすという行為
・裏返す
などについての議論が含まれていた。
当時、アナログレコードのジャケットは、
あのアナログレコードの大きさで見るように
デザインされていた。(当たり前である。)
そして、針を落とすという行為が、
非常に力強い、“音楽に集中する助け”となっていたことは、
当時、多くの人が経験していた。
そして、「裏返す」。
当時、非常に多くのアナログレコードアルバムは、
この行為を逆算して、制作されていた。
今で言うと「ライブのセットリスト」のようなもの。
A面の最後は、いかにも「休憩前に一度クライマックスが来る」ような曲であったし、
B面の最初は「休憩後の最初の1曲」のような曲であった。

だから、アナログレコードのアルバムをCD化する際に、
その体験を引き継ぐために、
A面の最後の曲と、B面の最後の曲の間に、
1分程度の曲間を入れればいいのではないか、
という議論もあったはずだ。
(実際にはそんなことをしたら、CDアルバムを通して聴いたときに、
アナログレコードを知らない人にとっては意味の分からない無音が
1分入ってるCDが出来上がることになるので、
実際にそれを行ったアルバムは記憶にない。というか、
この当時の議論自体、検索をかけても出てこない。
記憶違いではないと思うが、もうそんなことを
覚えていてネットに上げる人はいなくなってしまったのか、
はたまた私の検索が下手なのか。)

いずれにせよ、レコードアルバムの“中身”には、
アナログレコードそのものが含まれていたわけだ。

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似たようなことは、映像でも起きる。
ビデオが一般化する前の映画には、
まさか小さい画面で見る人がいるだなんて考えもしていない、
という構図の映画がたくさんあった。
現代でも、
「映画館でしか見れないような表情筋の動き」
などという役者さんのインタビュー記事などを読むにつけ、
ビデオが一般化した今であっても、
ビデオで見ることは、
いわば絵画を画集で見るような、
見る側が想像力による補正を必要とする行為なのだろう。

映画の中身には、映画館が含まれているようだ。

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本はどうか。
本の本質、本の中身は、書かれている言葉だろうか。
私は最近、特に本の本質について考えるようになった。
スマートフォンを使い始めた当時、
私は1冊の電子書籍を購入した。
pdfでも、Kindleでもない、電子書籍。
その小説は、もう、読めない。
どういうファイル形式だったのだろうか、
OSが上がったタイミングで、開かなくなってしまった。
サポートが終了したのだろう。

私は、iPadやKindleを、まだ所有していない。
読んだ本はなるべく捨てるように生きてきたが、
それでも、“どうしても捨てられない本”で、
本棚は一杯だ。
だが最近、改めてそれらを開いてみると、
ほとんどの“どうしても捨てられない本”は、
もう、老眼で読めないことがわかる。

私は、フォントの大きさを変えられる、
ブルーライトのない電子書籍に移行すべきか。
その端末、そのファイル形式は、
私が生きている間、稼働してくれるのか。

新しモノが好きな人や、若い人に話を聞いてみると、
「なんか結局、紙ですよ」と、
紙の本を読んでおられたりもする。
装丁など、明快に言うことができる価値以外にも、
何か「紙の本」でなければならない理由があるようだ。

(でも私はもうじき、かなりの本を捨てることになるだろう。
老眼で読めないんじゃぁ、もうしょうがない。)

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今後、5G回線などが普及して、
ロスレス音源、すなわち、
CDと全く同じデータのストリーミング配信が
当たり前になったら、
私はCDを手放すのだろうか。

データが同じとして、
そのためにPCを立ち上げ、
そのためにDAコンバーターを買い、
そのためにアンプを買って、
今のヘッドフォンにつなげるなら、
音質は今と大差なくなるだろう。

だが、音楽を聴くのに、
パソコンを立ち上げるか?
あるいは、スマホなどからロスレスの状態で外に出せるか?
画面の光が音楽を聴く妨げにはならないか?
そもそも、様々な人がロスレス配信を聴き始めたら、
電波帯は持つのだろうか?
どこかで自動圧縮は入らないのか?
曲間の無音など、
CDプレーヤーに入れなければ仕様的に体験できないものは、
もはや始めからなかったことになるのだろうか?
ジャケットデザインは1枚の画像だけになってしまうが、
ライナーも含めて電子書籍のようにファイル化するのか?
以上のような思考可能な問題以外に、
本のように、「なんか結局、紙ですよ」、
なんていう、思考化できない実感を理由に元に戻ったりしないだろうか?

なってみないとわからない。

CDアルバムの中身における、
44.1KHz/16bitデータ以外のものが、
ある日、不要となるのかどうか。

ただ、CDを作る最小ロットを考えるにつけ、
今後、私を含め、ニューアルバムをCDという形式で
出すことは、ますます難しくなっていくだろう。

(返す返すも、映画はいかにして生き残ったのだろう。
テレビが普及し始めた時代から「もう終わり」と言われ続けて、今も生きている。
どれほどの人々がどれほどの知恵と努力をそこに注ぎ込んできたのだろう。)

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話はいったん飛ぶ。
私がこの場所でブログを書いているのは、
この場所が、ある程度、
自分が思った色やレイアウトにできているからだ。
(スマホの方はちょっと読みづらいかもしれません。すいません)

でも、思った通りといっても、
そもそもこれがブログという入れ物じゃなかったなら、
文体はだいぶ違ったものになるように思う。
これが別のデザインのブログになったり、
そもそも別の入れ物になったりしたら、
全く別の文章になったり、
そもそも書くことができなくなったりするかもしれない。

自由に書いてはいるが、入れ物に合わせてもいるわけだ。
そういう意味では、メディアとのネットワークで、
このブログは書かれている。

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話をはじめに戻す。
私にとって、フロッピーディスクやMOディスクの中身は、
中に入っているデータ以外の要素は、なかった。
フロッピーディスクでなければ体験できないもの、
MOディスクでなければ体験できないものは、
私の手元には、なかった。
世の中にも、そういうものはほとんどなかったと思う。
(90年代、自主制作フロッピーディスクなるものを
池袋の ART VIVANT というお店で買った覚えがある。
中身は興味深いテキストファイルだったが、
そのフロッピーは散逸してしまった。)

つまり、一口にメディアといっても、
メディアとのネットワークの中で「作品」となっているものと、
中の「データ」だけが作品・内容・価値であって、
そのデータが入っている入れ物(メディア)は、
全く価値がないものとがあるわけだ。

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さて。
私は心血を注いでデータを作る。
それを誰かが受け取って下さる。
そのあいだにある、沢山の「入れ物」。
それらの、どれに、どのぐらい、
どういう種類の、価値があるだろうか。

Windowsとか、iPhoneとか、GAFAとかが、
ある日、別の何かに移行したら、
私は、惜しいと思うのだろうか。

何か、私(たち)の間に、
まんべんなく、広大な虚無が挟まっていて、
それが虚無過ぎて、私(たち)に見えていないような気がするのだが。

OSやプラットフォームはメディアじゃない、
そう言われれば恐れ入るばかりだが。

MOやフロッピーがなくなる日が来るなんて、
15年ぐらい前には想像してなかった私が、
何か、分かってて当たり前の何かに、
今になって気づいただけなのだろうか。

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こんなことを考え、言語化しても埒が明かないので、
そもそも言語化・データ化できないような、
その場でしか経験できないライブをやって、
それをどうにか録音物として聴いていただけるように調整して、
USBメモリで売って
あとはライブの模様を、
半ば記録、半ば次のライブへの宣伝という位置付けで、
Youtubeに公開しているわけだ。

フロッピーとMOを捨てるときに、
あまりにも惜しくなかった自分に驚き、
この文章を書き始め、
気づいたら数時間経っていた。
ざっと推敲しても、
まだうまくまとまり切っていないように感じる。
だが、推敲する時間は、あまりない。

この時間と気力を、
前回のライブダイジェストの編集に使えばよかったんだろう。

だが、書いてしまった。
しょうがない。