注がれた心血

注がれた心血はどこに消えるのか という問いに対して
梅の枝の行き先に 答えが見えたような気がした
- [2020/05/23 17:27]
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人間と人間らしさと、高架橋下の雑草
まさかここまで大変なことになるとは思わなかった。
------------------------
当たり前だが、
人間は、人間らしさだけでできているわけではない。
肉体を構成する物質には物質の法則が適用できるし、
生命の法則は植物とだいたい同じだし、
腸のはたらきは腔腸動物と大差ない。
人間らしさというのは、
出現が最も遅いものなので、
最も歴史が浅く、最も頼りないもの、
とも言えるわけか。
そして、その頼りない「人間らしさ」こそが、
人間の人間たる所以、
人間の存在理由とも言えるわけか。
そんなことを、たとえば、
「アウシュビッツでこれから処刑される人が、
着ているものを脱ぐよう命じられ、
命じられるままに服を脱いだものの、
脱いだ服をどこに置いたらいいか、
置き場所に困っていた。
人間らしさとはそういうことなのだ。」
というような話を読んで、
イメージしたりしていた。
(20世紀後半の話だ。本の詳細は忘れてしまった。)
------------------------
どこまで自然から離れようとも、
人間は自然から完全には離れられない。
(いいや、人間は全部電脳化できる、
という方もおられるだろうが、
電脳化したって部品や電気は物質と言える)
じゃあ自然に還れ、と言っても、
自然がつらいから人間はここまで来た、
とも言えるわけだ。
自然と人間らしさは、常に相克しているし、
自然と相克しつつバランスをとるのが人間だ、
などと言ってしまうと、
ちょっとグノーシスに寄りすぎているだろうか。
------------------------
人間と自然の相克バランスを、
どの辺に設定するか、ということについて、
私は、鈴木大拙の本を思い出す。
『自然を排除した、
平安京の貴族文化のようなものは、
まだまだ甘い。
むしろ、日本の一番凄いところは、
自然にかなり近い場所に見られる。』
だいたい、そんな話だったように思う。
(詳細は忘れた)
平安時代のヴァーチャルな貴族文化より、
その後に来た鎌倉文化の、
そのまた辺境、自然に近い田舎の中に、
日本文化の一番すごいところが現れる、
というのが鈴木大拙の文章だったと記憶している。
(詳細は忘れたし、読み返そうにももう老眼で読めない)
これを今に適用すると、
日本の一番すごい文化というのは、
ヴァーチャルな文化の後、すなわちこれから、
地方の、自然に近いところ、すなわち、
第一次、第二次産業の周辺に散見できるようになる、
ということになる。
私は、鈴木大拙に100%賛同しているわけではない。
(難しすぎてよくわかっていないとも言えるが)
そもそも「妙好人」の自我感覚と、
「モラルハラスメント」の自我の入れ替えは、
私には非常に近いものに思えるので、
それが一番良いところなのであれば、
一番悪いところもそこに立ち現れてくるように思えてしまう。
(小説「沈黙」の奉行を通じて遠藤周作が描こうとした日本の悪にもこれは通じているように思える)
“自粛”、つまり自分から慎むことを
“要請”、つまりお願いしているけれど、
それは実質“強制”なのだ、というのは、
捉えようによってはかなり恐ろしいことだ。
とはいえ、
強制的な“封鎖”もなしでみんなここまでできるのは、
やはりすごいことだよなあ、とも思う。
こういうことが、「同じメダルの裏表」、
という表現で済むのかどうかも、よくわからない。
目の前に“善悪の彼岸”が広がっているのだが、
それがあまりに深く、あまりに広いので、
なかなかそれを観察できない、といったところか。
そもそも、どうしても戦争などと比較してしまうが、
これは国家も民族も人種も関係ない、疫病。
自然災害だ。
くどいようだが、21世紀の今、
「疫病」でここまで大変なことになるとは思わなかった。
------------------------
不要不急人間として、
不要不急の外出を控えていると、
心身がみるみる衰えていく。
なので、時折、歩く。
これを“散歩”と言えば自粛していないように聞こえるし、
“ウォーキング”と言えば自粛を頑張っているように聞こえる。
少し歩くだけで、
世の中のサウンドスケープが全く変化していることに気づく。
子供たちの遊ぶ声は、住宅街や高速道路の防音壁に当たり、
昭和時代、いや平成時代にも聞いたことのない響きとなっている。
住宅街に点在する、普段は人のいない公園が、
今この状況で、人の心を維持するために、
大いに役立っていることもわかる。
親子のキャッチボールの音が、高速道路の防音壁にこだまする。
私は私でいつもの通り、
整備された公園よりはむしろ、
高架橋の下の雑草から生命を分けてもらっている。

自然から遠ざかるのが人間、
自然を欲するのも人間。
------------------------
いま「老眼で読めない」と書いたばかりだが、
鈴木大拙「日本的霊性」をぱっとめくってみた。
岩波文庫84頁、
「霊性の動きは、現世の事相に対しての深い反省から始まる。」
~
反省かぁ。
長年電子音楽やってきて「反省」って言ってもなぁ。
今この年齢とこの体で農業とかできっこないしなぁ。

------------ 以下告知 ------------
ニューアルバム
「KAIHOU」
配信中
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当たり前だが、
人間は、人間らしさだけでできているわけではない。
肉体を構成する物質には物質の法則が適用できるし、
生命の法則は植物とだいたい同じだし、
腸のはたらきは腔腸動物と大差ない。
人間らしさというのは、
出現が最も遅いものなので、
最も歴史が浅く、最も頼りないもの、
とも言えるわけか。
そして、その頼りない「人間らしさ」こそが、
人間の人間たる所以、
人間の存在理由とも言えるわけか。
そんなことを、たとえば、
「アウシュビッツでこれから処刑される人が、
着ているものを脱ぐよう命じられ、
命じられるままに服を脱いだものの、
脱いだ服をどこに置いたらいいか、
置き場所に困っていた。
人間らしさとはそういうことなのだ。」
というような話を読んで、
イメージしたりしていた。
(20世紀後半の話だ。本の詳細は忘れてしまった。)
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どこまで自然から離れようとも、
人間は自然から完全には離れられない。
(いいや、人間は全部電脳化できる、
という方もおられるだろうが、
電脳化したって部品や電気は物質と言える)
じゃあ自然に還れ、と言っても、
自然がつらいから人間はここまで来た、
とも言えるわけだ。
自然と人間らしさは、常に相克しているし、
自然と相克しつつバランスをとるのが人間だ、
などと言ってしまうと、
ちょっとグノーシスに寄りすぎているだろうか。
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人間と自然の相克バランスを、
どの辺に設定するか、ということについて、
私は、鈴木大拙の本を思い出す。
『自然を排除した、
平安京の貴族文化のようなものは、
まだまだ甘い。
むしろ、日本の一番凄いところは、
自然にかなり近い場所に見られる。』
だいたい、そんな話だったように思う。
(詳細は忘れた)
平安時代のヴァーチャルな貴族文化より、
その後に来た鎌倉文化の、
そのまた辺境、自然に近い田舎の中に、
日本文化の一番すごいところが現れる、
というのが鈴木大拙の文章だったと記憶している。
(詳細は忘れたし、読み返そうにももう老眼で読めない)
これを今に適用すると、
日本の一番すごい文化というのは、
ヴァーチャルな文化の後、すなわちこれから、
地方の、自然に近いところ、すなわち、
第一次、第二次産業の周辺に散見できるようになる、
ということになる。
私は、鈴木大拙に100%賛同しているわけではない。
(難しすぎてよくわかっていないとも言えるが)
そもそも「妙好人」の自我感覚と、
「モラルハラスメント」の自我の入れ替えは、
私には非常に近いものに思えるので、
それが一番良いところなのであれば、
一番悪いところもそこに立ち現れてくるように思えてしまう。
(小説「沈黙」の奉行を通じて遠藤周作が描こうとした日本の悪にもこれは通じているように思える)
“自粛”、つまり自分から慎むことを
“要請”、つまりお願いしているけれど、
それは実質“強制”なのだ、というのは、
捉えようによってはかなり恐ろしいことだ。
とはいえ、
強制的な“封鎖”もなしでみんなここまでできるのは、
やはりすごいことだよなあ、とも思う。
こういうことが、「同じメダルの裏表」、
という表現で済むのかどうかも、よくわからない。
目の前に“善悪の彼岸”が広がっているのだが、
それがあまりに深く、あまりに広いので、
なかなかそれを観察できない、といったところか。
そもそも、どうしても戦争などと比較してしまうが、
これは国家も民族も人種も関係ない、疫病。
自然災害だ。
くどいようだが、21世紀の今、
「疫病」でここまで大変なことになるとは思わなかった。
------------------------
不要不急人間として、
不要不急の外出を控えていると、
心身がみるみる衰えていく。
なので、時折、歩く。
これを“散歩”と言えば自粛していないように聞こえるし、
“ウォーキング”と言えば自粛を頑張っているように聞こえる。
少し歩くだけで、
世の中のサウンドスケープが全く変化していることに気づく。
子供たちの遊ぶ声は、住宅街や高速道路の防音壁に当たり、
昭和時代、いや平成時代にも聞いたことのない響きとなっている。
住宅街に点在する、普段は人のいない公園が、
今この状況で、人の心を維持するために、
大いに役立っていることもわかる。
親子のキャッチボールの音が、高速道路の防音壁にこだまする。
私は私でいつもの通り、
整備された公園よりはむしろ、
高架橋の下の雑草から生命を分けてもらっている。

自然から遠ざかるのが人間、
自然を欲するのも人間。
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いま「老眼で読めない」と書いたばかりだが、
鈴木大拙「日本的霊性」をぱっとめくってみた。
岩波文庫84頁、
「霊性の動きは、現世の事相に対しての深い反省から始まる。」
~
反省かぁ。
長年電子音楽やってきて「反省」って言ってもなぁ。
今この年齢とこの体で農業とかできっこないしなぁ。

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ニューアルバム
「KAIHOU」
配信中
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