感情地形
最近、人間の感情を、
“地形”のように感じることが増えてきた。
この土地にこの作物は適している、
この場所にこの発電は不向きである、
ということがあるように、
地形は非常に変えづらい。
------------------------
何十年繰り返しても、
学ぶことができない人がいる。
何十年繰り返しても、
学ぶことができないものがある。
得意なことを伸ばすのはよいが、
不得意なものを人並みにしようとするのは、
途方もない辛苦を伴う。
途方もない辛苦を味わったところで、
そういったものごとは、
ごくわずかしか成長できないか、
あるいは、全く、成長できない。
さらに凄まじいことには、
あまりにも不得意なために、
本人が「不得意である」ことすら自覚できない、
ということも多い。
(このことを実感するのに、私は数十年かけている)
------------------------
何十年繰り返しても、
学ぶことができない人々に対して、
これはもう、こういう人なのだ、というか、
こういう“地形”なのだ、
という感覚を持つようになってきた。
この地震は止まらない。
この氾濫は止まらない。
ここに水を注いでも作物は育たない。
そういう風に捉えるようになってきた。
こういう感覚を、
“諦念”と呼んでいいのかどうかは、わからない。
こういうこと、すなわち、
人間の治らない“地形的な部分”に対して、
適した作物に植え替えたり、
遠くから用水路を引いたり、
あるいは削れない山に対して
トンネルを掘ったりするような行為を、
“マネジメント”と呼ぶのだろう。
そういうことにこの歳になって気づく、ということは、
私がどれほど“マネジメント”が不得意か、
ということの表れでもあるわけだ。
------------------------
私が長年励行してきたことに、
“親身なダメ出し”がある。
“ダメ出し”、悪いところを伝えることは、
言われた方は非常に不快なものであるし、
言う方も個人的な思い込みが混入していたり、
たとえ正論であっても改善不能なものだったりするので、
基本、言わない方がお互いのためなものだ。
なので、ダメ出しをする際、
私は以下のようなマイルールを持っていた。
・絶対に間違えている。私見ではない。
・絶対に改善できる。その方法は簡単である。
・相手と自分が親密であるか、或いは十分に距離があり、お互いに禍根が残らない。
・伝える機会が、相手から与えられる。
こういう場合に、私は親身に、丁寧に、ダメ出しをしていた。
20年、或いは30年程度続けていたろうか。
数年前にふと気づいた。
改善された例は、ほとんどない。
ちょっと考えて、その理由も概ね理解した。
絶対に間違えていて、絶対に直すことができるものが、
目の前にあって、それを放置しているような人々に、
それを言ったって、伝わらないだろう。
------------------------
2020年6月現在のこの状況に対して、
「歴史に学べ」という人は多い。
だが見ていると、どうも、人間の、
「学べない部分」が歴史なのではないか、
という気持ちも湧いてくる。
人為が非常に及びづらい部分が“歴史”なのではないか。
------------------------
かつて、人間社会の特定の事柄について、
この先に何があるのか、
三葉虫やアンモナイトを見れば明らかだ、
という方がおられたと記憶している。
人為の及ばない領域で起きることは、
人間界においても自然界においても、
似ているのかもしれない。
人間社会における、人為の及ばない部分。
------------------------
かつて、ウィルスが来て、
経済が分断され、
国連が弱まって、
世界大戦が起こった。
そのことを、政治や経済や、
歴史に詳しい人は、みんな分かっているのだろう。
それに対して、私に意見なんぞあるはずもない。
分かっていることを止められるかどうかだって、
私にはわからない。
------------------------
本質的な物事は、因果律とは違う部分にあることが多い。
ある哲学者が、のちの哲学者の考えを発展させているように見えても、
のちの哲学者は、前の哲学者のことを知らない、
そういうことがあるのだそうだ。
音楽だって、何かが継承されていくというより、
個々人が別の根を持って、別の幹であったほうが、
ずっとエネルギーに満ちている。
(こういうことを言うと各方面から怒られるんだが)
歴史―因果律で展開する物事の上に、
非・歴史―因果律に基づかないものが顕現する。
そのようなことに思いを巡らすと、
ああ、やはりいま何か、大きなものが、
去っているのだな、
という気持ちが湧いてくる。
------------------------
エドゥアール シュレー著「偉大な秘儀参入者たち」を、
通読は、した。
理解できたかどうかは、あやしい。
印象深かったのは、“秘儀参入者”が世を去ったあと、
時代が再び歴史の渦に埋没していく描写であった。
(もう本を手放したので詳細は思い出せない)
超歴史的存在、非因果律的存在が去ると、
人類は歴史的になる。
そういうことだろうか。
------------------------
私は歴史に詳しくないし、
それほど好きでもない。
「これからどうなるのか、歴史を見れば明らかだ」
と言って、それ以上口にしない人や、
「歴史の歯車が動き出したのだ」
と言って、それ以上口にしない人に、
何が見えているのか、
私にはよくわからない。
------------------------
一応、「Archetype Drone Vol.17」で予感したことや、
「KAIHOU」で意識的にやったこととは、
これはつながっているだろう、とは思う。
だが、ここまでのことになるとは、
全く想像していなかった。
いまこの瞬間に起きていることだって、
想像力が追い付かない。
先は長い。
“地形”のように感じることが増えてきた。
この土地にこの作物は適している、
この場所にこの発電は不向きである、
ということがあるように、
地形は非常に変えづらい。
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何十年繰り返しても、
学ぶことができない人がいる。
何十年繰り返しても、
学ぶことができないものがある。
得意なことを伸ばすのはよいが、
不得意なものを人並みにしようとするのは、
途方もない辛苦を伴う。
途方もない辛苦を味わったところで、
そういったものごとは、
ごくわずかしか成長できないか、
あるいは、全く、成長できない。
さらに凄まじいことには、
あまりにも不得意なために、
本人が「不得意である」ことすら自覚できない、
ということも多い。
(このことを実感するのに、私は数十年かけている)
------------------------
何十年繰り返しても、
学ぶことができない人々に対して、
これはもう、こういう人なのだ、というか、
こういう“地形”なのだ、
という感覚を持つようになってきた。
この地震は止まらない。
この氾濫は止まらない。
ここに水を注いでも作物は育たない。
そういう風に捉えるようになってきた。
こういう感覚を、
“諦念”と呼んでいいのかどうかは、わからない。
こういうこと、すなわち、
人間の治らない“地形的な部分”に対して、
適した作物に植え替えたり、
遠くから用水路を引いたり、
あるいは削れない山に対して
トンネルを掘ったりするような行為を、
“マネジメント”と呼ぶのだろう。
そういうことにこの歳になって気づく、ということは、
私がどれほど“マネジメント”が不得意か、
ということの表れでもあるわけだ。
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私が長年励行してきたことに、
“親身なダメ出し”がある。
“ダメ出し”、悪いところを伝えることは、
言われた方は非常に不快なものであるし、
言う方も個人的な思い込みが混入していたり、
たとえ正論であっても改善不能なものだったりするので、
基本、言わない方がお互いのためなものだ。
なので、ダメ出しをする際、
私は以下のようなマイルールを持っていた。
・絶対に間違えている。私見ではない。
・絶対に改善できる。その方法は簡単である。
・相手と自分が親密であるか、或いは十分に距離があり、お互いに禍根が残らない。
・伝える機会が、相手から与えられる。
こういう場合に、私は親身に、丁寧に、ダメ出しをしていた。
20年、或いは30年程度続けていたろうか。
数年前にふと気づいた。
改善された例は、ほとんどない。
ちょっと考えて、その理由も概ね理解した。
絶対に間違えていて、絶対に直すことができるものが、
目の前にあって、それを放置しているような人々に、
それを言ったって、伝わらないだろう。
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2020年6月現在のこの状況に対して、
「歴史に学べ」という人は多い。
だが見ていると、どうも、人間の、
「学べない部分」が歴史なのではないか、
という気持ちも湧いてくる。
人為が非常に及びづらい部分が“歴史”なのではないか。
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かつて、人間社会の特定の事柄について、
この先に何があるのか、
三葉虫やアンモナイトを見れば明らかだ、
という方がおられたと記憶している。
人為の及ばない領域で起きることは、
人間界においても自然界においても、
似ているのかもしれない。
人間社会における、人為の及ばない部分。
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かつて、ウィルスが来て、
経済が分断され、
国連が弱まって、
世界大戦が起こった。
そのことを、政治や経済や、
歴史に詳しい人は、みんな分かっているのだろう。
それに対して、私に意見なんぞあるはずもない。
分かっていることを止められるかどうかだって、
私にはわからない。
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本質的な物事は、因果律とは違う部分にあることが多い。
ある哲学者が、のちの哲学者の考えを発展させているように見えても、
のちの哲学者は、前の哲学者のことを知らない、
そういうことがあるのだそうだ。
音楽だって、何かが継承されていくというより、
個々人が別の根を持って、別の幹であったほうが、
ずっとエネルギーに満ちている。
(こういうことを言うと各方面から怒られるんだが)
歴史―因果律で展開する物事の上に、
非・歴史―因果律に基づかないものが顕現する。
そのようなことに思いを巡らすと、
ああ、やはりいま何か、大きなものが、
去っているのだな、
という気持ちが湧いてくる。
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エドゥアール シュレー著「偉大な秘儀参入者たち」を、
通読は、した。
理解できたかどうかは、あやしい。
印象深かったのは、“秘儀参入者”が世を去ったあと、
時代が再び歴史の渦に埋没していく描写であった。
(もう本を手放したので詳細は思い出せない)
超歴史的存在、非因果律的存在が去ると、
人類は歴史的になる。
そういうことだろうか。
------------------------
私は歴史に詳しくないし、
それほど好きでもない。
「これからどうなるのか、歴史を見れば明らかだ」
と言って、それ以上口にしない人や、
「歴史の歯車が動き出したのだ」
と言って、それ以上口にしない人に、
何が見えているのか、
私にはよくわからない。
------------------------
一応、「Archetype Drone Vol.17」で予感したことや、
「KAIHOU」で意識的にやったこととは、
これはつながっているだろう、とは思う。
だが、ここまでのことになるとは、
全く想像していなかった。
いまこの瞬間に起きていることだって、
想像力が追い付かない。
先は長い。
- [2020/06/21 16:39]
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秘儀と年齢
真夜中に太陽を見る、とか、
切り離されることで目覚める、とか、
そういった秘儀が、
セントラルパークでも起きる、つまり、
いつでもどこでも起こりうる、
それが現代なのだ、という記述に対して、
考え続けた数十年であったが、
ふと歩いていて、
厚い雲の向こう側のわずかな太陽を体に浴びているとき、
なんだ、こういうことだったのか、
と思うことがある。
あきらかに、
年齢と経験によるものだ。
生れ落ちて まっしぐらに 遠ざかっていく

切り離されることで目覚める、とか、
そういった秘儀が、
セントラルパークでも起きる、つまり、
いつでもどこでも起こりうる、
それが現代なのだ、という記述に対して、
考え続けた数十年であったが、
ふと歩いていて、
厚い雲の向こう側のわずかな太陽を体に浴びているとき、
なんだ、こういうことだったのか、
と思うことがある。
あきらかに、
年齢と経験によるものだ。
生れ落ちて まっしぐらに 遠ざかっていく

- [2020/06/01 18:02]
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