さまざまな死、さまざまな耳 

2020の12月にハロルドバッド氏が亡くなり、
2021の6月にジョン・ハッセル氏が亡くなり、
そして2021の8月にはマリー・シェーファー氏が亡くなった。

1人のファンとして、この立て続けの喪失感は堪える。
ただただご冥福を祈るばかりだ。

舟沢はこういった人々に大きな影響を受けてきたのだけれど、
歳をとるほど、じつは“違い”の方が目立ってくる。

仕方ない。人間は全員違う。

マリー・シェーファー氏の著作「世界の調律」は、
日本で出版された80年代当時、多くの人々に読まれていたし、
舟沢も熱心に読んだ。

と同時に、この時代は、この書に記されている、
「サウンドスケープ(音風景)」という概念が指し示すものが、
猛烈な勢いで崩壊し始めた時代でもあったように思う。

皮肉なことに、この「サウンドスケープ」という概念こそが、
サウンドスケープの崩壊を助長していた――少なくとも、
当時若者であった私にはそのように見え、
何が起きているのかと、愕然と街を歩く日々であった。

東京のアート系書店に、書籍「世界の調律」が並ぶ。
音を風景としてとらえる考え方を知る。
それが、「環境音楽」と訳された、
ブライアン・イーノ氏によるアンビエント・ミュージックともからみ合い、
その場所に適した上質な音を出すことは、
先進的かつオシャレである、という風潮が広まる。
このあたりで、山手線の発車音が、
発メロ(駅メロ)に変わった。
(具体的に、発メロを作った人々と、JRの間にどのようなやり取りがあったのか、サウンドスケープについてのプレゼンがあったのかどうか、当時学生だった私には知る由もないのだけれど。)

山手線の発メロ自体はとてもよくできていたし、
駅員の感情のこもった、しゃくり上げるようなホイッスルを聞かなくて済むようになるだけでも、だいぶありがたいことではあった。

ただ、社会の大半の人々は、
音を風景としてとらえること、
どんどんうるさくなる都市の音を少しでも落ち着かせることに、
あまり理解を示さなかった。

当時、山手線の駅では、非常に静かな発メロを、
駅員さんが、連打していた

当時、まさに「過激な音楽」の領域において、
「破壊エネルギーの象徴」として使われていたサンプリング技術。
それと全く同じことを、駅員さんがやっていたのである。
静かなピアノ音の発メロを、
「カカ!カカカ!カーンカーンカ!カ!カ!カーンカーン」
と連打している駅員さんを見ると、
カッと見開いた目で駆け込み乗車していく乗客を見据え、
「もうドアを閉めます」という信号音として、
静謐な音楽を、必死で連打していたのだ。
(そうしなければ、多くの乗客はドアが閉まると認知できなかった。)

地方に行けば、
ベルを鳴らし、ホイッスルを吹き、
「発射しまぁーす!」と声を張り上げ、
発メロを鳴らしてから、ドアが閉まっていた。
発メロを鳴らす分だけ、音がむしろ増えてる。

何たる断絶、何たる分断、
この溝が埋まる日はいつになるのか、
などと思っていたが、

そんな日は来なかった。

発車用のメロディは「世界の調律」のため、
即ちサウンドスケープを公的に整えるためのものではなくなった。
(もしかしたら、初めからそのような目的は盛り込まれていなかったのかもしれない)
そうなる少し前から、既に携帯電話の普及が始まっており、
いつ誰が、どんな音楽を鳴らすかわからない時代がやってきてもいた。
今となっては、もう、世界の果てまで行ったって、純粋なサウンドスケープを聞くことは困難だろう。

(「自宅で完全にリラックスしたつもりでいても、無意識ではいつ電話が鳴るのか待ち構えてしまっているものだ」、と言ったのは確かコリン・ウィルソン氏だったと思うが、いつ誰が、どんな音楽を鳴らしだすのか、どこにいたって誰かが、何かが「通知」してくる時代がやってきた以上、もう無理だ、と思って生きていくしかないだろう。私だってちょっとスマホの操作を間違えればサイレントモードであっても音を出してしまうことがある。)

こう書いている時点でも、個人的には、発メロについて、
「せめて同じホームで鳴る曲の調はそろえませんか」とか、
「極端な転調を何度もするのはやめませんか」とか、
「せめて70dBぐらいまででまとめませんか」とか、
思ったりもするけれど、
調が違って、転調しまくって、爆音であればあるほど、
「この番線のこの電車が発車します」という信号音としての役割は果たされるので、
まあ無理だろうな、とも思うし、
こんなことを書いてて、
発メロ関連の雇用に影響でも出たら、
と経済的な心配、ためらいも感じてしまう。
現状だって、しゃくり上げるホイッスルの“生演”よりは、大抵の駅においては少しましだろうとも思うし。

「内面にサウンドスケープを持って行くしかなかろう。」
舟沢は、21世紀の初頭には、そう思っていたし、
シリーズ化も試みた。(これこれ。CDもまだあります。。)
そもそも、私にとって音楽とは、7~8割方、
内面に生じるサウンドスケープの伝達であるような気がする。

(このへん、舟沢が敬愛する、初期アンビエントの方々との違いを、年を取るごとに深く感じている。仕方ない。むしろ違ってこそ人間。)

それでも、引っ越しを終え、
大量の雑用をこなしている最中、
ブライアン・イーノ氏の「サースデイ・アフタヌーン」をかけていて、
窓の外の救急車が絶妙なタイミングで
「シーソーシーソーシーソー」と、
「サースディ・アフタヌーン」のGコードと見事にかみ合ったりすると、
「おー。サウンドスケープだー。」
と感心したりもする。

だが、それも舟沢個人の感想に過ぎない。
カナダ国立映画制作庁が作った、
マリー・シェーファー氏の短いドキュメントを見ると、
シェーファー氏の唱えるオリジナルのサウンドスケープには、
再生音は含まれないことがよくわかる。

『Listen.』

このシーンで「ん?何が鳴ってる?」と暫く耳を澄ませて、
数十秒経ってから、
「ああ、この動画の音以外の、自分の周囲の音を聞いてみろ、という意味か」と気づいた。

何十年追及しても、気づくのは数十秒遅れる。
仕方ない。

遠い場所になりつつあるから 

25年、いや26年ぐらいだったろうか、
住んでいた場所から、引っ越した。

引っ越す前、しばらくぶりに、
住んでいた場所の、屋上に出てみた。



ここからの空も、見納めか。
ここから何度、月を見つめたことだろう。

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遠いところを見つめることは、
歳をとるごとに、減っていくようだ。

なぜだろう、と思うに、
人は生れ落ちてから、ただひたすらに遠ざかり続ける、
つまり、いま私がいる、この場所こそが、
遠い場所になりつつあるから、
そんな風に、思ったりもする。

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さあ、引っ越しに伴う、
大量の雑用が、きょうも押し寄せる。