時間、主観、柔らかな光 

あれはいつだったろうか。
父が逝く数日前のことだったと思う。
私は、途方もなく長い一日を経験した。
理由はよく判らない。
信じられないほど長い朝に始まり、やがて午前中がやってきて、
そのうちに昼となり、それが徐々に午後に移り変わり、
夕方が訪れ、日が暮れ、夜がやってきて、夜中になった。

「時間の本質は主観的なものだ」と言ったのはグルジェフだったろうか。

父が逝ってから、改めて“自分んち”が「浄土宗」であることを知る。
寸暇を縫って法然について調べたが、
結局一番印象深かったのは、葬儀の際にご住職が、「浄土」のことを、
「太陽が沈んだ彼方にある苦しみのない所」と仰ったことだ。

「大乗仏教にはキリスト衝動が作用している」というのは、
人智学系の書物に頻出する言葉だ。

フォーマルな靴がダメになったので新調し、
たまった洗濯物を片付け、冬物の電気毛布も洗ってしまい、
いくつかメールレスをし、DVDを2枚見て、
myspaceに写真付きコメントを貼って巡回したら、
あっという間に数日経っていた。
何やってんだ俺。

時間が主観的なものであるなら、多少自力でコントロールできてもいいはずだが。

ほんの1週間myspaceを欠席しただけで、かなりの人々が私をフレンドから抹消していた。
それも特に緊密に話していた人ばかりだ。判らない。
私には、電車で隣り合わせた日本人が何を考えているかもまるでわからない。
アメリカ人やベルギー人が何を考えてるか判らなくて当然だ。

父の死には触れず、日本のお葬式の様子が映ったYoutubeを貼って、
「このような状況から戻ってきました」と掲示したら、
「映像を見ると、どうやら結婚式のようだね。」と書いてきたアメリカ人がいた。
花が多いので結婚式に見えたようだ。説明したら「Sorry」だそうだ。

最近、ふと、特に大好きというわけでもないのに、フェリーニを思い出す。
彼はどういうモチベーションで後半生の作品を撮っていたのだろう?
彼の後半生の作品には、他の多くの名監督とは別種の意思が働いているように見える。

晩年のフェリーニの柔らかな光。

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