教宗じゃねぇし 

禅師、退院。
鍼灸治療を受けながら、師の不在中に観じた自分の核心、
どうにもならない醜い塊りについて話してみた。

師、呵々と笑う。

以下、記憶を頼りに問答を再現。

「それがねぇ、坐ってっと消えてくのよ」
「え?あれが、消えるんですか?」
「うん。消えるの。」
「普段の、日常の意識とは全く違う、自分の核心、これこそが自分の本体、これこそが決して消えない自分の中心、と観じたんですが。」
「でしょ?
坐ってっと、いつかはそれに出会うんだわ。
それはそんなふうに醜い場合もあるし、
信じられないくらい美しい場合もあるし、
数年おきに交互に顕われたり、
つぎつぎに“これこそが自分の本体”ってのが入れ替わってく場合もある。
その“本体”がね、坐ってくうちに、ほぐれて、溶けて、なくなっていくんだよ。無常ってやつだね。
それはいきなりパァッとなくなる人もいるかもしれないし、
オレみたいに何十年も七転八倒せにゃならん場合もある。
つまり、オレはオレの宿題をこなさにゃいかん、
キミはキミの宿題をこなさにゃいかんのだ。
人によって違うんだわ。そこんとこが。
だからキミにあまりリクツ教えたりしないで、
ただ坐ってるわけだ。
そもそも(禅宗は)教宗じゃねぇわけだしね。

キミと話すのは楽しいよ。」

そう言われてなんとなく嬉しくなったが、さて。
こんど久々にコンサートなるものに食指が動き、
ジョン・ケージ作曲「龍安寺」
をスパイラルに聴きにいくのだが。
私はいったいどんな体験をするのだろう。
なんだか見当もつかなくなってきた。

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