知覚 

―見る前に電車の中で考えていたこと―

文化のシャッフルはどうやら終わり始めたようだ。
社会が撹拌を終え、少しずつ沈殿し始めているのが分かる。
私達の文化は老化し始めたのだ。
あとはじりじりと、いがみ合いながら、
鉱物資源や排出物質といった“文明”の側から崩壊しはじめ、
個人の心や人と人との関係性は硬化し、融通を失い、
滅んでいくのだろう。

私、というか、私達は、何しに生まれてきたのだろう。
かつての時代、とりわけ近代化の途上の時代、
人々は否応なしに役割を担わされ、
否応なしに生き、否応なしに死んでいった。
私達からは、“否応なしの自由”すら、去って行き始めている。

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会場に到着。大層な混雑である。
近くに座った若い男性二人の、「この空間面白ぇじゃねぇか。こういう空間でよう、なおかつ酒が呑めるような空間でよう、オレはやりてぇんだよぅ。○○が音出してよう、△△がピアノ弾いてよう、オレが××な音出せばよう、なぁ、おもしれーだろ?」、といった会話が途切れ途切れに聞こえてきて、少し苦笑する。約半世紀前に私の父が書いた小説に出てくる“文化祭へ向かう少年の台詞”と基本的に変わらない。

公演が始まる。
櫻井郁也/十字舎房公演:
タブラ・ラサ

ほどなくして、いつもの櫻井公演と何かが違うことに気付き始める。
動きがどうとか、音がどうとか、批評めいたことは書きたくない。
しかし、今までのどの櫻井公演とも、何かが決定的に違う。
櫻井氏がこちらを見る。
実際の櫻井氏は近眼なので、客席と目が合うことはないのだそうだが、それでも何度か眼で射抜かれるような体験をしたことがある。
しかし今日の眼は違う。
あれは櫻井氏の眼ではない。
巨大な、何も見ない眼が、何も見ない眼のまま、こちらをじっと見ている。

後半につれて、舞台空間に何かが充満しはじめる。
今までに見たどんなものとも、今までに体験したどんなものとも似ていない。
終盤にさしかかって気付いた。

この公演には『上部構造』が存在する。

なにか、完全に想像を絶した、完全に理解不能な、何らかの“存在”が、全く理解不能な理由と、全く理解不能な目的を持って、全く理解不能な関わりをかけてきている。
簡単に言うと、「なんか降りてきてる」。
いままでも“なんか降りてきてる”公演は観たことがある。踊りの公演を多く観る人なら、そういう現場に立ち会った経験が一度や二度ではない人も多いことと思う。
しかし、一体なんと言えばいいのか、
「ぜんっっぜん違う何か」がこの舞台に降りてきてるか、あるいは、その途方もない何かが何かをしていて、その行為の一部分がこの舞台公演全体なのか、
そのどちらかであるらしい。

私はポカンとしながら舞台を見つめる。
出演の方々は、このことに気付いておられるのか。
一体何が降りてきてるのか。
一体何が起きているのか。
不可知な空間が舞台に充満した中で、
アコーディオンの感動的な和音と櫻井氏の充実した身振り。

カーテンコール。割れんばかりの拍手。
隣の女性は涙を拭っている。

以上を簡潔にアンケート用紙に書いた後、
楽屋に櫻井氏を訪ねる。
たまらず尋ねる。
「いったい何が起きてたの。」
氏はただ満足げな笑顔。ご本人も気付かなかったのか、それともただ答えないのか。

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―帰りの電車の中で考えたこと―

あれは一体なんだったのだろう。
今までに知覚したどんなものとも少しも似ていないし、
ほんの少しでも似た名詞や動詞や形容詞が見つからない。
…そういえば、どこかで笠井叡先生が、「神霊の中には人類の進化に全く関心を持たない、全く人間に姿を現さない存在もいる」と仰っていたような気がする。正確なところも、どこで読んだのかも思い出せないが、あるいはそういった存在が、人間に理解不能な理由と目的と方法であの舞台に顕現してきたのだろうか。その場合、関わった人間は今後どうなるのか。
解らない。

老いた母がいつか言っていた。
「人間の運命など人間が決められやせん」
いつもネガティヴ・シンキングの私に禅師が仰る。
「まぁ、それでもそのうち思いがけねぇなんかが来るんじゃない?」

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人間は小さい。
七転八倒しても小さい。
怠れば小さい。
急いでも小さい。

世界は、想像を絶した何かなのだ。
私達は想像もつかぬまま、生まれ、生き、死んでいく。
できることはわずかな努力と、もっと僅かな結果と、
一瞬のチラ見ぐらいだ。

想像を絶しているのだから、
ここまで考察しても、
明日からの人生にこれといった変化はない。

―やはり明日からまた、あれやこれやと思い悩んで生きていく。
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追記。
この公演のチラシにある櫻井郁也氏の「創作ノート」や紹介文を読んでいて、「もしかしたら全てははじめから意図されたものかもしれない」、と思いました。文章のあちこちと、私が知覚した“何か”との間に、微細な共通点があるように思うのです。
こちらに同じ文章が掲載されていますが、公演告知なので、今後リンク切れするかもしれません)
…仮にそうだとしても、私にとって想像を絶していて、「私はあまりにも小さい」ことに変わりはないので、私にとってはあまり変わりがありません。
想像を絶しているのが、「初めて知覚する何か」なのか、「初めて知覚する何かを知覚させた旧友櫻井郁也氏」なのか、その違いでしかないのです。

コメント

舟沢さん

最近人間とは--、と思う過程で、以下全ての分野において素人ながらに脳とは?芸術とは?心理とは?etc
ということを考えていました。
哲学をちょっとおいて考えてみると、
『マインド・タイム~脳と意識の時間』(ベンジャミン・リベット)には何か面白い示唆があるように思います。(難解)

自らの知覚の前に既に体内で起きていること。
呼吸や、血液循環という生命維持以外の活動でもそれらは起きていること。

そもそも自らの「知覚」って何なのだろう、、、
意識している「自分」とは?・・・
とまた逆に迷路の中に入っていってしまうのですが・・・。

こうしてあれこれ思うのも人間で、そんなこと考えても、毎日動いてると、実際は時間が足りない・・・です(私はやはり俗物な存在だと感じます)

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