無功徳 

隣の芝生。
確かそんな件名のスパムが毎日来てた時期もあったな。
いつも中身を読まずに自動削除していたが。

「隣の芝生が青く見える理由は簡単だ。
だれだって自分の芝生は青く見せるじゃないか。」
――長距離列車のなかで、そう得意気に“解説”している漫画を読んだ。
“だれだって”そうであるのか、
少なくとも世の中の大多数の人がそうであるのか、
私には、皆目解らない。
しかし、その漫画か漫画家さんは、確か社会に多くの共感を呼び、ドラマ化もされていたような記憶がある。
私が大多数の人々の当然の行動を理解も知覚もできていないのだろうか。
…気にしても解るようにはならなそうなので、考えるのを中断。

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私の気質の特徴は、憂鬱質だということよりも、むしろ、
多血質の要素が非常に希薄であることにあるのではないか、
そう思うことがある。
子供のころ、何度も医師に「自家中毒」と指摘された。
母が叱ってもなだめても工夫しても、気に入った食べ物以外は決して口にしなかったのだ。
半年くらい同じ曲を聴き続け、飽きると別の曲を半年聴くような生活が、特殊なものであるらしいことは、20代に友人の驚く表情から気付いた。
(最近は多血質、憂鬱質、粘液質、胆汁質という区分について、ぐぐっても多少信頼できるサイトが見つけられるようだが、一応、W・ホルツアプフェル著『体と意識をつなぐ四つの臓器』を紹介しておきます。)

今の時代、多血質の人々はとても有利だと思う。
先週の自分を毎週全否定し続けても、物事を中断して次に行っても、平気。
シゴトが速い。環境の変化に即応できる。うらやましい限りだ。

例えば江戸中期の日本に多血質に生まれていればとても辛い人生になりそうに思うので、こればかりは運次第だろう。
そして、この“四つの気質”は、訓練で治るものでは、ない。
憂鬱質で救われてるところは、鬱病に対する耐性ぐらいしか思い浮かばない。かなり重症になっても日常生活ができるのだ。

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心身共に弱く生まれついたが、どういうわけか、孤独にだけは滅法強く生まれついた。
‥そう思っていたのだが、自分で自分を誤解していたのかもしれない。
一人暮らしを始めて14~15年ほど経った辺りで、
孤独が魂を蝕んでいること、
しかし孤独でない状態に耐える力も大幅に低下していることに気付いた。
色々な悪あがきをしたが、「色々な悪あがきをした」、という経験だけが残った。
一人暮らしはもう24~25年ぐらいだろうか。
面倒なので数えたくもない。

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以前ここに書いた、「グレン・グールド・マイブーム」はまだ続いている。
ちょっとでもまとまった時間ができれば、晩年のほうの「ゴールドベルク変奏曲」を聴いている。
これは、私にとって何かの反動というか、何かの補償作用だろうと思う。グールドで、バッハだなんて。
私は元来、他人から論理的にあり得ないと言われて自分でもそう思うんだが、それでも、「リバーヴのパラメーターのインスピレーションを受け、そこから自ずからミックス・バランスが決まり、次に音色が決まり、ノイズが決まり、録音を始め、最終的に完成した、と思ってから何か付け足したくなって和音とメロディーを入れる」というようなことが多々あるほどにエコーが重要な人間だし、
無用な音を聞き流すことなどできないし、
多声音楽を聴くと体の中に稲妻状の針金が無数に刺さってくるような苦痛を感じる体質だったのだ。
第一、音程を音程と思わずに今日までやって来た。(それどころか、十代中頃までは、私にとって音楽は“見るもの”であった。特定の曲を聴くと、特定の映像が瞼に映ったのだ。)

聴けば聴くほど、知れば知るほど、グールドという人について考える。
人目を気にせずDTMに夢中になってる人みたいな手のしぐさ、
まるで楽曲のMRI写真を見せるような音、
体に負担がかからないはずのない姿勢と筋肉の使い方、
指揮者と聴衆を待たせて30分も椅子の高さを調節していた逸話、
いったい、どれほど沢山のことを気付かずにいることができた人なのだろう。
「天才とは何かを持っている人ではなく、何かが欠けている人だ」って、誰が言った言葉だったか。忘れてしまった。
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しかし、わがままを言わせてもらえば、ちと困った。
これでは時が折り返ってしまう。
例えて言えば、明治生まれの女性。
自分の考え、自分の感情を持つことが全く許されない社会で育ち、大人になり、歳をとり、老境に入ってから突然、女も自分の思うことを自由に思ったり、思ったことを言葉にして言ったり、考えたりすべきだ、という時代が来た、そういう人々。
高度成長期の日本で、高齢の女性が心身症を患った場合、かなりの割合で、
「地平線(または水平線)に太陽が二つあり、一つは沈もうと、もう一つは昇ろうとしている」
という夢を見たのだそうだ。
私はまだ老境とはとても言えない年齢だが、“真逆”に目覚めてそれを統合するにはちと人生は短すぎるし、外側どころか内側まで不安定になっては生活が立ち行かない。

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楽器屋さんに聞いたのだが、もはや「シンセサイザー」というのは非常に特殊な楽器なのだそうだ。
もはや衰退著しく、若い人にとっては、ミュージシャンを目指す若者ですらソフトシンセしか知らなかったり、「音色が思い浮かぶ」という人はもはや見当たらず、売ってるシンセもエディットしづらい、そのかわり工場出荷時の音色を選びやすい構造になっているそうだ。

最近、とある舞踊の公演を観た。
様々な音楽が使用されていたが、その中に「シンセサイザー音楽」があった。
ほかにも昔のレコードなども鳴っていたのに、その曲だけ、「古い。ダサい」と思った。そして、この自分がそう思ったことに、慄然とする。

’00年代の前半、随分と“かんばって”、よくノートパソコン1台で音楽を作る人が出すような「ピーガリプチプチ」な音楽を沢山聴き、遂には「仕事として頼まれれば作れる」ところまできたのだが、好きになることは出来なさそうだ。てゆうか、無理して沢山聴いたからだろうか、ほんの数枚のCDを除いて、「ほんとうにきらいな音楽」になってしまった。(なんかそういう音楽作ってる皆様に申し訳ないですが。)

それだけではない。
いままで自分に強いてきたり、自分で自分をだましだまし聴いてきたいくつかのジャンルの音楽が、「ああ。自分はほんとうにこういう音楽がきらいなのだなぁ」、とか、「そうか、自分はじつはこの種の音楽は嫌いだったのか」と、気付きたくもないことにも気付くようになってきてしまった。
それでいて、今まで「本当にきらいだ」と思ってた音楽が魂と繋がり始めている。さらに言えば、私は私の作風をそう簡単に変える気質ではない。多血質が微弱で、なおかつ憂鬱質の人間にとって、変化とは根源的な苦痛なのだ。

さて。もろもろ困った。どうしたものか。どうしようもない。
どうしようもないので、無功徳なれど、坐禅する。
それでもどうにもならないので、MIRCOKORGをいじる。
すると、自分でも驚くほど、腹が据わる
腹の底に、「無功徳」という言葉が錨のように降りている。

無功徳。
有意義でも、無意味でも、
売り物になってもならなくても、
時代がどうなろうと、
カッコよかろうとわるかろうと、
楽しかろうと辛かろうと、
私は、シンセサイザーと、向き合う。

最近は、そんな感じです。

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