読破ではなく 

「OPUS」という雑誌がある。
芸術関連の雑誌で、ほぼ自費出版らしいのだが、けっこうレベルが高い。
この「OPUS」の第2号に、
西川隆範「シュタイナーにおける美と芸術と社会」
という文章が寄稿されている。
タイトルどおり、「ルドルフ・シュタイナーにおける、美と芸術と社会」についての概略を、6ページでさらっと書いてある文章。
西川隆範先生がしばしば~恐らくは出版社の意向で~シュタイナーの思考の道程を単純なレジュメにした本を執筆なさることについては、「単純化しても意味がない」、といった苦言をしばしば目にするが、
この6ページを眺めているうちに、気付けば常に枕元において、日ごろから眼を通すようになっていた
シュタイナーの本を3~5冊読み込んでおぼろげに何を言わんとしているのか解るような事柄が、2行で書いてある。
その2行は、他の2行と複雑に符合し、そこで見えてくることは別の3行と複雑に符合していく。
そしてそれは、私の人生の核心にも触れることがある。
たとえば、私にはどうも、音楽に対して「楽しきゃいいじゃん」という言葉を肯定することに、ためらいがある。「理論上正しい音楽であれば、それは正しい音楽である」という言葉と同じくらい、「気持ちよければ正解だ」という主張には、何やら同意しかねるものを感じるのだ。
その理由が、この西川先生の文章に、さらりと書いてあることに気付いた。
シュタイナーの文献を読まずに、この6ページだけを読んで「あっ!」と気付けるものかどうか、解らない。だが、シュタイナー読みの芸術家には、「あの本にはこう書いてあって、この本にはこう書いてあって…」ともやもやしていることが、短い文章で概観できるので、目を通すたびに、何か発見があるのだ。
シュタイナー本人がしばしば自分の芸術論を絶対化しないよう念を押しているように、私もまた「シュタイナーが言う通りの芸術を作ろう」としてはいない。私はシュタイナーから刺激を受けているに過ぎない。したがって、私の作品について、「これはシュタイナーのどこに書いてある思想ですか?」と訊かれても、大抵はどこにも書いていない。つまり、「あなたの作品はシュタイナーの思想と違う」と言われても、言い返すつもりはない。(ですから“慇懃なる審問”は無用に願います。)

それにしても、年々歳々自らの知能の低さに気付いて行く。
近年になって、私は、本というものを、「読破」することに意義を見い出し過ぎていたことに気付いた。

難しいのなら、解るまで次のページに行かない。
解るまでそこに留まって考え続ける。
そういう本があってもいい。

そういう思いで、T・シュベンク「カオスの自然学」を丁寧に読み始める。
いつ読み始めたのか、もう忘れてしまった。
考えに考え、ついには理解することをあきらめ、ページをめくった箇所もある。

年内には読み終えたい。

「カオスの自然学」の前に読んでいたのは、父の遺句集。半年かけて読んだ。
読書量は数百分の1になったと思う。
でもこれでいいのだろうと思う。

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