Re:「日本音楽に回帰するのは善なのか悪なのか?」  

――これは元々、前田ただし様のブログにコメントしようとして書き始めたら、長すぎてコメントと呼べない代物になったため、トラックバックとさせていただく文章です。

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ごぶさたしております。
元々音楽を「善悪」では考えないたちではありますが、
それでもちょうど昨今、似たようなことを考えておりました。
が、私自身、知識が圧倒的に乏しいこともあり、考えますに、自らの魂で遡れるものをある種の“原点”とする以外、自分にとって自然な道はないのではないか、という風に捉えております。

私の場合、『古い日本の音楽』で最も重要に流入しているのは中山晋平先生のメロディなのですが、ご存知かもしれませんが、大正時代の最初のレコードの大半は伴奏がなく、ただ唄っているか、あるいは“伴奏”のピアノがメロディとユニゾンしているだけです。これが10年ほど経って、昭和一ケタになると、同じ曲でもレコード化の際にオーケストラの伴奏が入るようになるのですが、「1番:Am-E-A、2番:Am-Em-A」という風に、長調、短調の区別はオケ譜が書けるほどの教育を受けた人にとっても困難であった様子が伺えます。(いわゆる『洋行帰り』の音楽家の方々と、こういった方々とにどのような交流や葛藤があったのか、私は存じ上げません。)

以下、未だ繋がらない思考の断片でございます。

1:古い音楽療法の本を読んでいて、
『明治生まれのお年寄りなどから「荒城の月のような朗らかな曲がききたい」と言われて、若い治療者が知らない症候と思ってしまう場合があるが、短調の音楽を悲しいものに感じ始めたのは、実は日本では最近のことであることを知っておくべきである』などという記述に出くわしたことがあります。
2:1000年前の京都の音楽は、1000年前の東北人にとって“同族の、類縁の音楽”であったかどうか。簡単にいうと、「日本」という概念そのものが結構近代的なのではないかと。
3:明治期に音楽教育を始める際、多くの政治家(元武士)が「音曲を民に教えるとは何事か」と激怒したため、“肺の鍛錬による結核の防止”を掲げ、“唱歌”という名の授業となった、しかし、現場の教師も地方に行けば行くほど授業そのものの意味が判らず、唱歌の時間になると生徒達に万葉集を絶叫させていたという記録があるのだそうです。そこがスタートラインとなり、その教育を受けた人もやがて親となり教師となり。それがほんの百年ちょっと前。
4:どうも昔の日本人は、非常に限られた例外を除き、感情がきわまって音声になって溢れ出たものを「うた」と呼んでいたふしがあります。メロディーと歌詞の区別が存在しない。万葉集も、当時は各人好きなようにフシ(≒メロディ)を付けて「うたわれていた」そうです。(とある言語学者が熱心に「和歌はうたうのが正しいんだ」とうたってみせている映像をN教で見ましたが、個人的には聴いててかなり苦痛を感じました)
R・シュタイナーが言うには、古代、「ヤーヴェ」というのは単語として存在したのではなく、常に「なかば歌われていた」そうですので、音と言葉が分離する以前の状態を、良くも悪くも日本人はごく最近まで保持していたのかもしれません。
5:ご存知のように、日本の多くの旋法が、西洋風に言うヨナ抜きの“ドミナント”に該当します。御詠歌で「みーみーみーれーみー」と唄ってるのを法事で聴いてると、私など勝手に脳内で「ら(Am)」を鳴らしてしまいます。この場合、「ら」は顕現しなかっただけで古来より存在していたのか、それとも西洋化した耳にあるように聴こえるのか。明治以降のどこかで、耳が“ひっくり返って”はいないか。
そういえばアラブ系の曲の多くも、ワンコードだと私には“ドミナント”に聴こえます。いつトニックに行くんだろう、と思ってるうちに終わる。ライなどでは、日本の演歌と同様、音階をやはりドミナントとして扱って、いわば“ひっくり返して”ポップスとして成立させています。
6:昔、「日本人と日本人以外では、鈴虫などの音を聴く脳の部位が全く違う」と聞かされたものですが、今ぐぐってみたら、最近その正否について論争になってるっぽいです。もちろん私に正否は解りませんが、myspaceをやりこめばやりこむほど、「ノイズ」というものに対する認識の違いを痛切に体験いたします。
7:ちょっと調べるたびに一々びっくりするのですが、いわゆる“邦楽”の楽器/器楽曲も、相当なものが明治以降大幅に整理整頓取捨選択されているようです。

というわけで、冒頭に「似たようなことを考えておりました」と書きましたが、似たようなことというのは、

「日本音楽とは何か?」
「そこに回帰することは可能か?」


でありました。
ま、ご覧のとおり混濁した思考が繋がることもなくだらだらと続いているだけですので、私としては、冒頭に書いたとおり、「自らの魂で遡れるものを“原点”とする」という姿勢しか、とりようがないのでありました。

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