星座が読めずとも
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●坐禅はまだ続けている。というか、時間が来てももっと坐ってたいと思うようになってきたので、多少は足も慣れたのか。
禅師は曹洞宗。ゆえに公案はない。ただ、坐っている。
●母の家系は曹洞宗なのだそうだが、父の家系は浄土宗だそうで、法事も「南無阿弥陀仏」である。父が逝ってから、しばらく法然を調べていた時期があった。
●ずっと連絡を取っていない知人のブログを読んでいたら、比叡山の住職が「南無阿弥陀仏がわかるようになるのは60過ぎてからだ」と言っていた、という記事を読んだ。そういえば、わが禅師も、「坐る、ってこうやるのかな?って坐り方が一応判ったのって30年くらい経ってからかなぁ」と仰っていた。
そんなもんかもしれない。
●最近はもう、HDに録画したものしかTVは観なくなっていた。
その録画機にはデフラグ機能もなんにもないので、
大丈夫かよ、とは思っていたが、案の定、
3年半でHDがカチャカチャいって動かなくなった。
こういうのは中のHDがバルクを付け替えられないよう工夫してある、というのは良く聞く話なので、とっとと修理へ。
最後に観たのは、
恐山にある曹洞宗のお寺のご住職へのインタビューであった。
恐山の民間信仰と仏教についてのインタビューを観終わったところで、
HDがカチャカチャいって止まった。
●その数日後、あらじめ予約していた「田園に死す」の演劇版を観に行く。
原作は言うまでもなく、恐山が舞台の寺山修司氏の映画。
観にいくと、セットの塔婆にはびっしり「南無阿弥陀仏」と書いてあった。
●その舞台には知人の舞踏家が出演なさっていたのだが、この舞踏家さんには、舟沢のイメージビデオ第二弾にご出演願っている。もう撮影は終わっていて、編集に難渋しているところ。
●そもそも私に、突然「なぜ舟沢さんはビデオを作らないのですか?」と訊いて私をきょとんとさせ、結果的に私を動画制作に導いた知人は、ゲーム業界では極めて珍しい、映画「田園に死す」が好きな人。
●そういえば、私が生まれる前、父は結核を患い、快復時に村の浄土宗のお寺でダンスなどして体力を快復させたらしい。父が老年に入ってから社交ダンスを始めた際、正直「なにやってんだろ」と思っていたが、父は父なりのダンスの自分史を持っていたようだ。
●父は東北人としての俳句を沢山遺した。私が生を享ける前は小説家を志していたようで、「田園に死す」のセリフに出てくる「家の光」にも、戯曲入選の経験がある。
東北人として、俳人として、文筆家として、さらに言えばダンスすらも、何もかもがテラヤマと世界観が違う父。舞台を観ながら、「これがテラヤマだよ。どう思うねとうさん。」などと思っていたら、行儀よく観てたのに、客席でなぜかやけに目立っていたのだそうだ。
●私の“ホームグラウンド”は、アナログの電子音を手で弾いて録音することだ。
ピアノやギターを弾いて、PCでプロセッシングするというスタイルに、自分を作り変えることはできない気がする。ソフトシンセも適応できない。
私に残された時間はどのくらいあって、私はその時間で一体何をなすべきなのか。詳しくは言えないが、時間、ということに少なからず思い悩んでいる。
●「田園に死す」を観た数日後、ネット上で知り合ったとても不思議な人が、いつもブログに不思議な詩を書いてらっしゃるのだが、
『まだ時間はあります』
と締めくくられる詩を書いておられた。
------------------------
――このように、最近はめっきり、
経験というものが、編み物のようになってやって来るようになった。
シンクロニシティに驚かなくなって何年経つだろう。
禅師は曹洞宗。ゆえに公案はない。ただ、坐っている。
●母の家系は曹洞宗なのだそうだが、父の家系は浄土宗だそうで、法事も「南無阿弥陀仏」である。父が逝ってから、しばらく法然を調べていた時期があった。
●ずっと連絡を取っていない知人のブログを読んでいたら、比叡山の住職が「南無阿弥陀仏がわかるようになるのは60過ぎてからだ」と言っていた、という記事を読んだ。そういえば、わが禅師も、「坐る、ってこうやるのかな?って坐り方が一応判ったのって30年くらい経ってからかなぁ」と仰っていた。
そんなもんかもしれない。
●最近はもう、HDに録画したものしかTVは観なくなっていた。
その録画機にはデフラグ機能もなんにもないので、
大丈夫かよ、とは思っていたが、案の定、
3年半でHDがカチャカチャいって動かなくなった。
こういうのは中のHDがバルクを付け替えられないよう工夫してある、というのは良く聞く話なので、とっとと修理へ。
最後に観たのは、
恐山にある曹洞宗のお寺のご住職へのインタビューであった。
恐山の民間信仰と仏教についてのインタビューを観終わったところで、
HDがカチャカチャいって止まった。
●その数日後、あらじめ予約していた「田園に死す」の演劇版を観に行く。
原作は言うまでもなく、恐山が舞台の寺山修司氏の映画。
観にいくと、セットの塔婆にはびっしり「南無阿弥陀仏」と書いてあった。
●その舞台には知人の舞踏家が出演なさっていたのだが、この舞踏家さんには、舟沢のイメージビデオ第二弾にご出演願っている。もう撮影は終わっていて、編集に難渋しているところ。
●そもそも私に、突然「なぜ舟沢さんはビデオを作らないのですか?」と訊いて私をきょとんとさせ、結果的に私を動画制作に導いた知人は、ゲーム業界では極めて珍しい、映画「田園に死す」が好きな人。
●そういえば、私が生まれる前、父は結核を患い、快復時に村の浄土宗のお寺でダンスなどして体力を快復させたらしい。父が老年に入ってから社交ダンスを始めた際、正直「なにやってんだろ」と思っていたが、父は父なりのダンスの自分史を持っていたようだ。
●父は東北人としての俳句を沢山遺した。私が生を享ける前は小説家を志していたようで、「田園に死す」のセリフに出てくる「家の光」にも、戯曲入選の経験がある。
東北人として、俳人として、文筆家として、さらに言えばダンスすらも、何もかもがテラヤマと世界観が違う父。舞台を観ながら、「これがテラヤマだよ。どう思うねとうさん。」などと思っていたら、行儀よく観てたのに、客席でなぜかやけに目立っていたのだそうだ。
●私の“ホームグラウンド”は、アナログの電子音を手で弾いて録音することだ。
ピアノやギターを弾いて、PCでプロセッシングするというスタイルに、自分を作り変えることはできない気がする。ソフトシンセも適応できない。
私に残された時間はどのくらいあって、私はその時間で一体何をなすべきなのか。詳しくは言えないが、時間、ということに少なからず思い悩んでいる。
●「田園に死す」を観た数日後、ネット上で知り合ったとても不思議な人が、いつもブログに不思議な詩を書いてらっしゃるのだが、
『まだ時間はあります』
と締めくくられる詩を書いておられた。
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――このように、最近はめっきり、
経験というものが、編み物のようになってやって来るようになった。
シンクロニシティに驚かなくなって何年経つだろう。
- [2008/12/17 07:07]
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