ちょっと悟った数十秒後
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PVの編集をしていて、
「ああ、これは要するにコラボレーションなのだな」
と、極めて当たり前のことを体感している。
元々、頭で考えればかなりのことまで理解することが出来ていた。
「自分の言葉で話す」といっても、その言葉が日本語ならば、少なく見積もっても、日本語を形成してきた過去から現在に至る全ての人々との、コラボである。
「自分の胸の奥で鳴っている音を作る」といっても、鳴らそうとして悪戦苦闘する対象はシンセサイザーだったりエフェクターだったりするのだから、少なく見積もっても、それらを設計した人々との、コラボである。
頭で考えれば当たり前のことだ。
意識しようとするまいと、作品というものは自分ならざるものと何らかの折り合いをつけたものである。
青色と黄色が混じって緑色になるように、自分ならざる外界の法則は、多かれ少なかれ必ず作品に色合いを与える。青緑か、黄緑かの違いはあるにしてもだ。
しかし、これを永年、体感せずに生きてきた。
というか、つい最近まで、これを意識化して体感することはなかった。
思い返してみると、音楽において、1曲だけそれを体感したことがあるのだが、その時は漠然とした“不全感”のようなもので、それが何であるのかうまく意識化できなかったのだ。
その曲の中心モチーフが生み出されたときと、
曲が完成したときで、
曲調がまるで違ってしまったのである。
「これはこれで確かに完成した。これはこれで悪くない。しかし、一番最初に生じた曲とは別のものになってしまった。メロディーも、対旋律すら同じ出だしではあるけれど、曲が指し示している世界が全く別のものになってしまった。これでいいのだろうか?」という思い。
B・イーノ氏はかつて、
「到着地点が、当初思い描いた目標からかけ離れていればいるほど、それは成功したことになる」というようなことを仰っていたと思うが、そのような言葉を思い出しながら、しかし不全感は拭えずにいた。(驚くべきことに、幾歳月が過ぎた今でも、その不全感は衰えない。)
ヴィデオとなると、さらにそれを感じなければならない。
写真~静止画では、それを意識化することはなかった。
対象と折り合いをつける必要が殆どなかったからだ。
「違う、違う、違う」と見回し続け、
「違う、違う、違う」とアングルを探し、
「違う、違う、違う」と撮って撮って撮りまくり、
「違う、違う、違う」と選びまくり、切り取りまくり、
「違う、違う、違う違う違う違う」とソフトで色や光や闇を追い込んで、
出来上がりとしていた。
こうして書くと、音楽の簡易版みたいな感じか。
これでは相手とコラボしてるという意識は生じない。
ヴィデオの場合、いくら「違う違う違う違う」と撮っても、
いざ編集してみると、全く違う様相を見せてくるのだ。
あれ?あんなにがんばったシーンが、編集してみると使うところがない??
あれ?一応撮っとこうと思って予備で撮ったカットがこんなに大事なカットになる??
あれ?ちょっとあればいいやと思ってたカットの尺が足りない???
PVの第二弾は、やっと微調整の段階に来ている。
それは確かに完成しつつある。
しかし、使う気満々で撮った、夥しいボツカットが残ってしまった。
自分でもなぜそれらが使えないカットなのか、既に微調整に入っていてもなお、理解できないのだ。
撮った対象。
編集によって生じるモンタージュ。
それら、自分に属さないものたちとの、コラボなのだ。
作品というのは、多かれ少なかれ、必ずコラボであるということ。
それを、頭の理解ではなく、体感として、いわば悟ったのは、今夜、長距離列車の中で物思いに耽っていたときだった。
よし。これでまた一歩前へ進めたかな。
そう思って、窓の外からアルセーニー・タルコフスキー詩集に目をおろし、ページをめくる。
「自分自身になれ」
‥‥凄いタイミングで凄いタイトルが目に入ってきた。
数十秒前に、ほんの少し手放せた気がした“業”が、再び目の前にある。
しかもこのタイトル、ゲーテの引用ではないか。
こりゃぁちょっと、暫定的な解釈すらできない。
しばらく内界と外界と、その境界を見つめながら、
注意深く日々を過ごそう‥‥
「ああ、これは要するにコラボレーションなのだな」
と、極めて当たり前のことを体感している。
元々、頭で考えればかなりのことまで理解することが出来ていた。
「自分の言葉で話す」といっても、その言葉が日本語ならば、少なく見積もっても、日本語を形成してきた過去から現在に至る全ての人々との、コラボである。
「自分の胸の奥で鳴っている音を作る」といっても、鳴らそうとして悪戦苦闘する対象はシンセサイザーだったりエフェクターだったりするのだから、少なく見積もっても、それらを設計した人々との、コラボである。
頭で考えれば当たり前のことだ。
意識しようとするまいと、作品というものは自分ならざるものと何らかの折り合いをつけたものである。
青色と黄色が混じって緑色になるように、自分ならざる外界の法則は、多かれ少なかれ必ず作品に色合いを与える。青緑か、黄緑かの違いはあるにしてもだ。
しかし、これを永年、体感せずに生きてきた。
というか、つい最近まで、これを意識化して体感することはなかった。
思い返してみると、音楽において、1曲だけそれを体感したことがあるのだが、その時は漠然とした“不全感”のようなもので、それが何であるのかうまく意識化できなかったのだ。
その曲の中心モチーフが生み出されたときと、
曲が完成したときで、
曲調がまるで違ってしまったのである。
「これはこれで確かに完成した。これはこれで悪くない。しかし、一番最初に生じた曲とは別のものになってしまった。メロディーも、対旋律すら同じ出だしではあるけれど、曲が指し示している世界が全く別のものになってしまった。これでいいのだろうか?」という思い。
B・イーノ氏はかつて、
「到着地点が、当初思い描いた目標からかけ離れていればいるほど、それは成功したことになる」というようなことを仰っていたと思うが、そのような言葉を思い出しながら、しかし不全感は拭えずにいた。(驚くべきことに、幾歳月が過ぎた今でも、その不全感は衰えない。)
ヴィデオとなると、さらにそれを感じなければならない。
写真~静止画では、それを意識化することはなかった。
対象と折り合いをつける必要が殆どなかったからだ。
「違う、違う、違う」と見回し続け、
「違う、違う、違う」とアングルを探し、
「違う、違う、違う」と撮って撮って撮りまくり、
「違う、違う、違う」と選びまくり、切り取りまくり、
「違う、違う、違う違う違う違う」とソフトで色や光や闇を追い込んで、
出来上がりとしていた。
こうして書くと、音楽の簡易版みたいな感じか。
これでは相手とコラボしてるという意識は生じない。
ヴィデオの場合、いくら「違う違う違う違う」と撮っても、
いざ編集してみると、全く違う様相を見せてくるのだ。
あれ?あんなにがんばったシーンが、編集してみると使うところがない??
あれ?一応撮っとこうと思って予備で撮ったカットがこんなに大事なカットになる??
あれ?ちょっとあればいいやと思ってたカットの尺が足りない???
PVの第二弾は、やっと微調整の段階に来ている。
それは確かに完成しつつある。
しかし、使う気満々で撮った、夥しいボツカットが残ってしまった。
自分でもなぜそれらが使えないカットなのか、既に微調整に入っていてもなお、理解できないのだ。
撮った対象。
編集によって生じるモンタージュ。
それら、自分に属さないものたちとの、コラボなのだ。
作品というのは、多かれ少なかれ、必ずコラボであるということ。
それを、頭の理解ではなく、体感として、いわば悟ったのは、今夜、長距離列車の中で物思いに耽っていたときだった。
よし。これでまた一歩前へ進めたかな。
そう思って、窓の外からアルセーニー・タルコフスキー詩集に目をおろし、ページをめくる。
「自分自身になれ」
‥‥凄いタイミングで凄いタイトルが目に入ってきた。
数十秒前に、ほんの少し手放せた気がした“業”が、再び目の前にある。
しかもこのタイトル、ゲーテの引用ではないか。
こりゃぁちょっと、暫定的な解釈すらできない。
しばらく内界と外界と、その境界を見つめながら、
注意深く日々を過ごそう‥‥
- [2009/02/13 01:02]
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