野菊トリガー 

あまりにも昔の話であるために、
事実関係を確かめることができない。

記憶の中では生き生きと、終わることなく残っている。
しかし、その生き生きとした記憶に付随する記憶が、殆どない。
いわばそれは、独立した想念のようなものとなっている。

なぜ、その出来事が生じたのか。
調べてみても、記憶の中の出来事と、
記録されている出来事に、微妙な食い違いもある。

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・私がそれを体験したのは、
中学生の頃ではないかと思う。
おそらく、1970年代後半だろう。

・今にして思うに、当時私が受けた教育というのは、
どうやらかなり古い様式のものであったらしい。
大人になってから、周囲の人々に子供のころの話を聞くと、
同世代の人々の子供のころの話とは随分と教育が違う。

・私は、中学校の校長先生を、
子供心に、「話のわかる大人」と思っていたように思う。
朝礼で何を言っているのか概ね理解することが出来たし、
なにより、貧血で倒れる生徒が現れたら、
朝礼を早めに切り上げることができる人であった。
“気をつけ”の姿勢や、“休め”の姿勢で微動だにせず、
大人の演説を聞くことは
子どもにとってはつらいことだと知っているらしい。
これは、当時の先生としては非常にめずらしく、大いに信頼に値することであった。

・私は千葉県で育った。
千葉県出身の作家に伊藤左千夫という作家がおり、
「野菊の墓」という小説が有名である。
私は小・中・高と、
「伊藤左千夫は偉大な文豪。野菊の墓は名作。」
とたびたび教えられながら育った。

・この出来事の中心には、
「のぎくのはかの どうぞうが ない」
という言葉が存在している。
それが伊藤左千夫の銅像、あるいは記念碑なのか、
野菊の墓の登場人物の銅像、あるいは記念碑なのか、
全くわからない。
いろいろ調べてみると、それらしきものは今、いくつか実在する。
しかしどの銅像、あるいは記念碑が、
1970年代後半にまだ建立されていなかったのか、
調べてみても、わからなかった。
あるいはそれは、今もまだ建立されていないのかもしれない。

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記憶を辿る。
私は、校庭に立っている。
それほど寒くは無い日の、朝礼。
校長先生の話を聞いている。
自分の記憶では、その話は“気をつけ”の姿勢で聞いてることになっているが、記憶違いかもしれない。
稀に、教頭先生なり学年主任なりが「やすめ」と号令せず、気をつけのまま朝礼を聞かなければならないことはあったとは思うが、この場合、“休め”の姿勢をとり、その姿勢を崩さぬように気をつけながら校長先生の話を聞いていたと考えるほうが、どこか自然のような気がするのだ。
あのときの緊張感が、“気をつけ”の姿勢に記憶を変容させたのかもしれない。

伊藤左千夫という文豪がいる。
とても偉大な人である。
野菊の墓という小説がある。
とても偉大な作品である。


だいたいそんなお話だったと思う。

記憶の中ではあいまいだけれど、きっと、
伊藤左千夫も野菊の墓も、
千葉県にとてもゆかりが深いのだ、
そういう話も含まれていたのだろう。
校長先生、いつもより少し、お話が長い。

どさっ。

だれかが貧血で倒れた。
誰かはわからない。
決してよそ見をしてはならない。
微動だにせず、誰かが倒れた音だけを聴く。
それが朝礼というものであった。
どこかで誰かがどさっと倒れると、
校長先生の話は急に簡潔になるのだ。
いつもなら。

ところが先生、演説をやめない。
同じ話を繰り返す。
一人、また一人と、生徒が倒れてゆく。
それでも、校長先生、同じ話を、やめることなく繰り返し続ける。
その内容は、私の記憶の中では、

「のぎくのはかの いとうさちよの どうぞうは
とうきょうには あるのだ
でも ちばには ないのだ」


という感じの話になっている。

正確な言い回しを覚えてはいないが、
その言葉と、次々と人が倒れてゆく音の、ループを覚えているのだ。


「のぎくのはかの いとうさちよの どうぞうが
とうきょうには あるのだ!
でも ちばには ないのだ!」

どさっ。

「どうぞうが!せきひが!きねんひが!
とうきょうにはあって!
ちばには!ないのだ!」

ばさっ。

「これは!だいじなことなんだ!
いとうさちよの! のぎくのはかの!
きねんひが!どうぞうが!
とうきょうには!あるのだ!
でも!ちばには!ないのだっ!」

ぐしゃっ。

「おいっ!これは!だいじなことだ!
これは!いわなければ!ならないことなんだ!
ぐあいわるいやつぁ、そのばにすわってもいいぞ!
いとうさちよの!のぎくのはかの!どうぞうが!
とうきょうには!あって!
ちばには!ないのだ!」

どさ、ばた、ごと、ぐしゃ、ざす、、


極度の緊張の中で聞いた、
このことばと音のループが、
自分の中である種の永遠性を得て、
いまでも私の中に生きているのだ。

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年々歳々、
だんだんと、この体験について、
考えるようになっていった。

なぜ、あのようなことがおきたのか。
校長先生は、貧血で倒れる生徒が一人出たら、
話を切り上げるほど“話のわかる”先生であった。
これは、当時の時代背景としては、
かなり珍しいことであった。
その校長先生が、目の前で倒れ行く生徒を見ながら、
なぜ、「のぎくのはかの どうぞうが ちばに ない」という話を、
やめることなく繰り返されたのか。
生徒の健康より大切な銅像、というものが存在するのか。
しかも、上記のように、「具合の悪い奴は座ってもいいぞ」と仰っている。
このとき、校長先生は、正気を失っていたわけではないのだ。
以上を総合すると、
「野菊の墓の銅像が千葉にない」と、いくら生徒を叱っても、
野菊の墓の銅像は建立されないのだということを、
校長先生が理解していなかったとは、考えにくい。
(なぜわざわざこんなことを書かねばならないのか、
理解できない方もおられるかもしれないが、
生徒に向かって生徒にはどうすることもできないことを、
本気で叱りつける教師というのが、
ありふれていた時代と地域が、あったのだ。)

学生時代、どこにでも置いてあった、
「野菊の墓」の文庫本。
私は、読んでいない気がする。
何度か読まなければいけない局面はあった気がするのだが、
仕方なく本をめくった、という記憶はあるけれど、
読んだ、という記憶は無い。

映画を学んでいた際に、
歴史的名作であるから観るようにと、
「野菊の如き君なりき」を見せられたのだが、
ストーリーは全く頭に入らなかった。
画面の中でどんな話が展開しているのか、
まるで理解することができなかったのだ。

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思い立って色々調べてみたら、
封建制、ということに出くわした。
「野菊の墓」のヒロインは、
字を習いたいと望むが、
身分卑しい者、しかも女が文字なんぞ習ってどうする、
女はまず縫い物ができて一人前だと諌められる、
そんなシーンが出てくる。

今にして思えば、あの時、校長先生は、
ご自分の使命を語っておられたのではないか。
おそらく、女に文字を習わせるなどとんでもない、という勢力が、
当時まだ大いに存在していたのではないだろうか。
国民には等しく文字や計算を習わせる、
ということが、まだ、あたりまえではなかったのではないのだろうか。

「野菊の墓のヒロインのような、
文字を習うことも、願いを叶えることもできず、
ただただ大人の事情で生きて、
大人の事情で死んでいく、
そういう子どもが沢山いる世の中は、よくないのだ。
子供たちには文字や計算を習わせ、
できうる限り大人の事情では生きたり死んだりさせないべきなのだ。
そして、そういう考え方は過激でも異常でもなく、
もはや権威のあるものとなったのだ。
だからこそ、東京には銅像が建っているのだ。
この新しい考え方を浸透させるためにも、
千葉にも、銅像を建立するべきなのだ。」


―校長先生は、そう言いたかったのではないだろうか。

では、誰に対してそれを言いたかったのか。
私には判らない。
朝礼に、どなたか教育委員会の偉い方が視察にでもいらしていたのか、
あるいは、ご自分の心の中に向かって諌めていらしたのか。
あるいは、その両方か。

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この出来事とは別に、
中学、高校と、比較的頻繁に起こった出来事がある。
姿勢の注意→靭帯の損傷→先生がご自分に向かって叫ぶ
という出来事。

「こら貴様、足を放り出して授業を聞くとは何事だ」
「靭帯を痛めてるんです」
「‥そうだな。靭帯を痛めたら足は伸ばしたままじゃなきゃいけないな。靭帯を怪我したら、足を、まげては、ならない‥おまえら!わかってんのか!靭帯をいためたら!足を!まげてはいけないんだ!伸ばしたほうが!治るのだ!‥ハァハァ‥うわーっ!靭帯を怪我したらーっ!足を伸ばしたままーっ!授業を受けてもーっ!いいのだーっ!」

無言の生徒達の前で、みるみるパニックになっていって、虚空に向かって叫ばれる先生が、何人もおられた。
これについては、多分中学校の教頭先生だったと思うが、ご自分の学生時代を述懐なさっておられたお話を覚えていて、そこから推察することができる。
昔は姿勢が悪い生徒を見かけると、背中に木刀を入れた。
それでも治らなければ、木刀を2本入れた。
それでも治らなければ、床に木刀を沢山敷いて、
その上に正座させて、背中に木刀を入れた。
それで背骨や関節を壊すと、
「どこまで礼儀知らずで、根性のない生徒なのか。
これはもうだめだ。」
と憐れんだ。
それが教育の全てだったのだそうだ。
恐らく、靭帯を怪我したら、礼節を欠いてでも足を伸ばしたままでいさせたほうが教育的なのだ、という合理的思考を、当時、多くの先生方が大人になってから突然聞かされたのではないか。
だから多くの先生方は、足を伸ばした生徒を前に、ご自分の育った過去と、あれほどまでに闘わなければならなかったのではないか。
私はそう推察している。

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校長先生が、
野菊の墓の銅像の必要性を、
あれほどまでに真剣に、
生徒の健康を損ねてまで叫んでおられたのは、
ご自分の中にしろ他人の誰かの中にしろ、
何か克服しなければならない感情に対峙しておられたからではないか。

野菊の墓のあらすじや、その成立時代などを調べてみて、
そんなことを考え始めた。
あの「銅像が、ないのだ、どさっ」というループの意味が、
たどたどしくもわかり始めたのである。
この生き生きとした終わらない出来事を、
寛解させる可能性を得るのに、
おおざっぱに言って、だいたい、30年かかった。

おおざっぱに計算してみると、
校長先生も、封建制の残る時代に生まれ育たれ、
「銅像が!ないのだ!」と使命に燃えて叫ばれるまでに、
だいたい30年くらいかかったのではないだろうか。

1970年代後半の中学生にとっては、もはや、
三島由紀夫すら歴史上の人物であった。
だから、目の前で起きている封建制感情との死闘が、わからなかった。

こうして考えると、
過去を清算するというのは、
いったいどういうことなのか、
よくわからなくなる。

前に進むとは、いったいどういうことなのか。
過去を知らぬままでいるほうが前に進めるのか。
過去はどんどん捨て去るべきものなのか。
捨て去ることは、そもそも、可能なのか。
他人や自分の過去を、私たちは、死を待ちながら受け流すしかないのか。
しかし過去なしで、私たちに何ができるのか。
体験したこれほど些細な出来事に対して、
思考の光が射すのに30年かかるのだとしたら、
私たちがしていることは、いったい、何なのだろうか。

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