多くの補足 

無粋、興醒めかつ、
無用な限定付けをしてしまような、
屋上屋を架すような、補足。

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三つ子の魂百まで。
成長期に体験した経験を変更するのは、
ほとんど生涯をかけた作業となる。

ありふれた例でいうと、人間は、
0~数歳までは特に苦労もなく言語を学ぶけれど、
成長してから外国語を学ぶのは非常に困難である。

一人の人間が育った環境を克服するのは、
その人間にとって、生涯にわたって行われる作業である。
それは非常な緊張を強いる作業であり、
その緊張は多くの場合、意識化されることもなく、
24時間365日継続されている。

そして、意識の薄皮一枚剥げば、
たちどころに20年前、40年前、60年前の体験が、
体中から溢れ出てしまう。

これが、
私が「民謡状の嗚咽」で伝えようとしたことの、一部。

私たちは、私たちが想像しているより、
ずっと、変化できない。

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過剰流動化社会。
1600万円の電子楽器が、ほんの数年で1万6000円になったのは、1980年代の話。
それですら、今思えば、のどかな時代であった。
私たちに日々迫られている変化は、
部分を変えることではなく、基本を変え続けること。

最近、多少なりともお客さんが入っているようなお店の、
建築を良く見てみるといい。
おそろしく簡易に建てられている。
初めから、いつでも閉店できるように作られているのだ。

半年後に、どのようなニーズに対して、
どのような場所で、どのように働くのか、
全く見通しが立たないほど速い社会においては、
今自分たちがしている仕事を向上させようとか、
この仕事に打ち込んでいこうとか、
人々が思わなくなっても、あたりまえなのだ。

仕事の変化が速すぎて、
日本中の人々に“処理落ち”が起きている。
仕事と仕事がかみ合わなくなり、
一人ひとりの仕事も、必然的に全身全霊のものではなくなってきている。
打ち込みきれないし、誠意も持ちきれないのだ。

これが、
iPod轟沈」で書こうとしたことの、一部。

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――片方に、想像もつかないほど変われない私たちがいる。
どうすれば機動隊に復讐できるか、という感情の上に、
ありとあらゆる思考と作業と人生を成り立たせて、
40年生きてきた人は、
残りの生涯もその生き方を変えないかもしれない。
日本人を外国人から守るのだ、という感情で、
60年も人生を生き抜いてきた人は、
最後までその人生を貫くかもしれない。

――もう片方に、想像もつかないほど変わらなければならない私たちがいる。
自分はどういう考え方で人生を歩めばいいのか。
よし、自分はこれに人生をかけよう、と思っても、
それは半年後に地球上から消えてなくなってはいないか。
人生経験を踏まえて、熟考の末に今後の目標を立てても、
その前提も、経験も、なにもかも、2~3年で無意味になってはいないか。

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このような状況下において、
私たちがしばしば行ってしまうのは、
感情の、受け流し。

カウンセリングの本などに、
「ピアスをしている男子高校生」
という“症状”で精神科に送られてきた少年の事例が出てきても、
私たちは受け流してしまう。
ピアスをしている男子高校生を見て、
「これは精神科に強制入院させるしかない」
と不特定多数の人々が思う地域社会を、
私(たち)はもはや思い浮かべることができないし、
「高校生の男がピアスして何が悪い!」と叫ばれても、
反論する理由も共闘する理由も、見い出せないのだ。

「芸術なんぞくそくらえ!」と叫んで、
ピアノをグーで殴ってる人を見ても、
そのエネルギッシュな音は聴いても、
叫び声のほうは聞き流してしまう。
ピアノをグーで殴るのに、
一々芸術に宣戦布告をしなけなければならない社会が、
もはや思い浮かべることができないからだ。

受け流しながら、その人々が死ぬのを待つ。
それが一番、社会をよりよくする方法なのかもしれない。
現に、私たちは、人通りに向かって奇声を上げている人を、
理解しようとはしない。受け流している。

しかし、受け流さない、という選択をした場合、
私たちの身に、何が起こるのだろうか。

私たちは、自分自身の感情もまた、受け流して生活している。
自分自身の心の中の出来事を受け流すのをやめるとしたら、
それで得られるものは何で、失うものは何か。

つまり、
歴史――世界史、日本史、社会史、自分史――とは、
一体何であり、それにどう接すればいいのか。

これが、
野菊トリガー」で伝えたかったことの、一部。

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野菊トリガーでは、「永遠性の獲得プロセス」についても、少し触れた。

ほんの一例。子供のころ、私にはいじめに遭っていた時期がある。
これだけでは、つらいことではあっても、あまり永遠性を得ていない。
しっかりと向き合ってさえいれば、時と共に、僅かずつでも色あせていく出来事である。

いじめられていることを、先生が知ったとき。
「いじめられた側に、ほんとうに、原因は、ないのかな?
君をいじめずにいられない人の気持ちを、君は、考えてみたことが、あるのかな?」
と言われ、その言葉を、信じたとき。
胴締めスリーパーでひしゃげた腰椎を整体で矯正しながら、
履きぼうきの柄を口にねじ込まれたときの猛烈な味や、
ねじ込む人間の凄まじい形相を思い浮かべながら、
「自分にどんな原因があったのだろう」
「そういうことをする人の気持ちをどうすれば理解できるんだろう」
と考え始めると、
その体験は“永遠性”を獲得する。
それは、どこにも受け取られずに永久に回線の中を反復し続ける、自動生成型のスパムメールに似ている。
その思考は一瞬も留まらず、想像しうる最大のスピードで、
全く劣化することなく、
数十年経っても同じところを反復し続けている。

おとなになってから、いじめていた人物に、出会う。
「俺たち、いっぱいケンカしたよな~(笑)」と、
その人物の中では、「たのしい思い出」に変化している。
それは、20世紀中頃まで地球上に広範囲に存在していた、
いわゆる“首狩り族”の心性によく似ている。
相手を殺し、相手を食べ、
相手と一体化することで、相手の力を得る。
相手の力はもはや自分の一部であるので、
相手は自分であり、自分は相手である。
つまりそこには、満ち足りた共感と、不可分な一体感しかないのだ。

かくして、食われた側は、外部から寛解させる可能性も、失う。
このループを、私は生涯受け流し続けなければならないかもしれない。

このプロセスについては、あまり論理的に書いてしまうと、
悪用ができてしまうので、これ以上詳細には書かない。
「みんな気をつけようね」、とだけ書いておく。
つまり、この文章だって、別にトラウマ吐いてるわけではないのだ。

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さて。
・この先どうなるかは、私たちの意志次第である。
・この先どうなるかは、もう誰にも予測できない。
どちらも、きっと正しい。

無神感というか、なんというか。
私たちは、明らかに、
ある種の神々が手出しできない状況下にある。

なんでも『華厳経』という書物に、
こういう状況に対する詳細な記述があるらしいのだが、
難しすぎて、舟沢には読めない。

あと、最近だと、
リーヴァフッド『境域に立つ』という書物も、
近いことが書いてあると聞いた。
最近、なるべく受け流さずに本を読もう、と決心したので、
さらにさらに読書量が減った。
今年中には読めるかな。

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今年に入ってこうして書いた文章と、
私がつくる音楽との関係を文章にしようとしたら、
2行の詩になりました。
今回のトップページの無題詩が、それです。
――とまぁ、これも無粋極まりないですね。
この説明は、そのうち消すかもです。

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