意味と音相 

法然上人の場合、
念仏はその言葉の意味のみならず、
念仏の“音相”にも救いが含まれている、
だから、唱えている念仏の意味が判らなくても救われる、
救われないんじゃないかと疑っている人すら唱えれば救われるのだ、
と仰ったんだそうだ。

これを、
意味よりも音相、ととるか、
音相が意味だ、ととるか、
意味と音相の乖離だ、ととるか。

つまり、音楽で言えば、
情動・理念・伝達・表出・内的必然性よりも、音程の配列の美、ととるか、
音程の配列の美だけに意味がある、ととるか、
内的必然性と音程の配列の乖離だ、ととるか。

古代には、
芸術と学問と宗教の区別はなかったというから、
こういう乖離がいつから始まったのか、よく知らない。
が、ここ数百年は結構向き合わなきゃいけないことではある。
みんなに愛されてる陽気なメロディが、
作った人は悲痛の底で作ってましたなんて話は、
いくらでもある。

人間は、情動・理念・伝達・表出・内的必然性なしに、
(もちろんマーケティングとかもなしに、)
価値ある音楽を作れるか。

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ジョン・ケージのインタビュー「小鳥たちのために」を読んでいる。
不明を恥じるというか、浅学を恥じるというか。

コンセプチュアル・アートの一員と呼ばれていることを、
インタビュアーに訊かれて初めて知って、
怪訝そうになさっているケージ先生。

ケージ先生が若い頃、サティのヴェクサシオンを18時間演奏するコンサートをやった際、
やってみたら関わった人間全員の生が変貌した体験の話。
それは関わった全員が思いもよらなかった経験であったこと。
予測された経験とは全く違う経験の重要性について。
これ、確かほぼ同時代に、若きイーノ先生も仰ってたはずだ。

自分の場合を出すのはおこがましいのだが、
私の場合は、最後まで何が描かれているか解らないジグソーパズルを作っているような感覚がある。
パーツパーツはひたすら作る。全体も形状も、あらかじめ見えている。
パーツの組み合わせも、目の前にある突っ込むべき藪のように見えている。
でも最後のパーツが組み合わさったとき、
「ああ、俺はこういうものを作っていたのか」と判る。

だからもしかしたら、尊敬する諸先生方とは、
私は根本的に違う種類の人間なのかもな、
などと思い悩んだりもする。

ケージ先生という方が、
一体どれほど深く、等しく、外界の音を愛してらしたかに思いを馳せると、
呆然としてしまう。
ケージ先生は“音相”の人だと思う。
ただ、全ての音を許容しようとなさった。
ご自分が書いた楽譜の通りに演奏家が演奏して、
聴くに堪えない騒音になったと言われたら、
「私にとってもそうでした。私たちの寛容さの問題です」
と微笑むケージ先生。

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経典の意味と音相。
さらに進んで、
「マニ車」なんてものもある。
中に経典が入ってて、小さいのはガラガラみたいな形をしていて、
回した分だけ中に入ってる経典・真言を唱えたことになるというやつ。
ネットを回ると、お年寄りが日がな一日マニ車を手で回してる画像とか、たくさん出てくる。

経典の意味。それを凝縮した真言。それが書いてある手車をクルクル回す行為。
そこには、失笑できない何かがあるように思えのだが、気のせいだろうか。

念仏は堕落か。
きっと違う。
道元の只管打坐は堕落か。
きっと違う。

では、意味、すなわち情動・理念・伝達・表出・内的必然性等が、
切実であればあるほど、
価値の高いものが出来上がるのか。
きっと違う、気がする。

「ほんとに違うか?」
そういう焼け付くような自問を、
本気で通過しているかどうかということ。

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受験に失敗する生徒を見たくないという思いで、
一人の先生が考えた無味乾燥な数式、「偏差値」。
あっという間にその意図を離れ、飛び火し、
沢山の不幸な人を作った。

もう人間は規格に押し込めてもだめだ、
これからは個性を伸ばして色んな人が社会にいるようにしないと、
多様化する社会に必要な人は確保できない、
だから最低限のことだけを学校で教えて、
あとは個性を伸ばすために時間を使って下さい、
という、「ゆとり教育」。
あっという間にその意図を離れ、拡散し、
沢山の不幸な人を作った。

日本に音楽教育が取り入れられる際に、
反対勢力を納得させるために、
肺の鍛錬による肺結核の防止が目的に盛り込まれ、
「唱歌」と授業名を変えられ、
それでも地方の教員は理解ができず、
「唱歌なのだから歌を唱ずるのであろう」と思って、
百人一首を叫ばせていた、という話を聞いたことがある。

肝心な真髄は、伝わらない。

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意味から作られる型、
型から体験される、意味。
本質の乖離ということ。

意味が剥がれ落ちて形だけが残り、
結晶として輝くものもたくさんある。

勘違いが花を開く事だって、いくらでもある。

でも、意味が伝わらないことで、不幸なこともたくさん起こる。

始まりに存在する“意味”とは、何なのか。

ここ数百年は、向き合わなきゃいけない問題だと思う。
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と、ここまで書いて、
人によって「意味」という言葉で思い浮かべるものが、
著しく違うことを思い出した。
しかし、「意味の意味」とか「意味の無意味」とかを論じだすと、
揉めるだけで先へは進まないと思うので、
私が使う「意味」の意味が判らなければ、
「馬鹿がなんか言っとる」とでも思って、
読み飛ばしてください。

「意味の意味」「意味の無意味」「意味の無意味の意味」
といった言葉を使って揉めることを娯楽に思ってる方々にとって、
この文章が無意味であることを願っています。

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