アベルの無関心 

愛の反対が無関心だとしたら、
悪いのはむしろ、アベルの側のはずだ。
(アベルが供物の一件の際に何か関心を抱いたのなら、旧約に書いてあるはずだ。)
そして、カインを殺すものは7倍の復讐を受けると言うのだから、
神としては意図的な追放というか、
計画通りに事を進めたように思える。
だって初めっからしくみ考えて追放してるじゃん。
そっからトバルカインとか、仕組み系の血脈が生まれてくじゃん。
ってことは、神としては、
アベル≒神≠カイン
という状況を作り出して、
カインにアベルを殺させて、
それを半永久的にに償わせながら、遠い未来に向けて、
アベル≒神≒カイン
への変化を人類にやらせよう、という算段ということで、
アベルの圧倒的な無関心は、
元々造物主たる神が人間に転写したもので、
その無関心の反射物としてカインの罪が生じた(あるいは、生じさせられた)ことになる。
殺人の源流は無関心。無関心の源流は、神、あるいは神の作為。

年齢を重ねるということは、
アベル的無関心を内に外に果てしなく経験させられていくこと。
愛の反対は、アベル。
愛の反対は、愛されているということ。

なんでこのことにみんな気付かない?と思うが、
そもそもこんな思考に宗教的権威はないので、
宗教の内側で暮らす人にはスルーして欲しいし、
興味本位の人というか、娯楽の外側でものを考えることができない人とかにもスルーして欲しいと思うので、
つまりは宗教家とゲーマーと似非オカルト好きの人はスルーして欲しいわけだから、
これ読んでちゃんと考えてくれる人はさぞかし少なかろう、とも思う。
------------------------

追伸。あちこちで書いてるけど、
グノーシス気質は自覚しとります。

あと、この話と新約との関係が、
私にはまだおぼろげにしか見えていません。

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
https://mushiof.blog.fc2.com/tb.php/419-195cbd31