円相・ウロボロス・自己マンダラ 

禅の円相と錬金術のウロボロスは、一見非常によく似ているようだが、
実はちょうど正反対に位置する何かではないか。

縦の円筒を思い浮かべる。
いわば、上部の先端が円相。
そして下部の先端がウロボロス。
つまり、ウロボロスは仏教で言う“無明”に近いのではないか。
しかし、ウロボロスは“始原”としての意味合いを含んでいるが、
仏教でいう“無明”は、克服すべきものという意味合いを帯びる。
もちろん、仏教は錬金術より不寛容だなどと思ってはいない。
むしろ、ある種の錬金術はなぜウロボロスを“目指した”のか、
そもそもなぜ、ウロボロスを物質に“投影”したのか、
そこに、西洋的な何かというか、自我性や運動性、或いは、西洋的心エネルギーのようなものを感じる。

東洋と西洋が、いつまで東洋と西洋なのかはわからないが、
この問題は今後もかなり長い間、切実な問題でありうるだろうと私は思っている。

グローバリゼーションが進んでも、地勢は残る。
雨の多い地域と雪の多い地域で、海辺と山中で、
文化はおのずから違ってくる。

個性も残る。
最近は“自分らしさ”というものは“ない”という考えが流行っているが、
生まれも育ちも脳の形もみな違う。
ホルモンバランスが違えば音の聴こえ方も変わることは経験が教えるところであるし、
腕の長さが違えば、振り子の法則により、最適なリズムも変化する。
身体条件が違えば、自我のあり方も違ってくるのはあたりまえだ。
学者の方々は、「いや、その“自我”がないんだってば」と笑われるのだろうけれども。

いずれにせよ、このような意味合いおいて、
西洋と東洋の違いは今後も永く、人々に陰影を与え続けることだろう。

現代美術や音楽のジャケットなどに描かれるマンダラに、
「これはほんとうはウロボロスを志向しているのではなかろうか」、
と思われるものに出くわすことがある。
そう思って気をつけて見ると、色々気付くに違いない。

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グローバリゼーションにどう向き合うかも重要だが、
ローカライゼーションをどう実現していくかも重要だ。
手の届く範囲を手入れするのは、ローカライゼーションの一環であり、
むしろ自ら積極的に行なわないといけないことのような気がする。

ローカライゼーションについて考えるとき、
自らをマンダラの円相の一つと考えること。
自分中心であり、自己発信(自己発振)であり、
それが中心のない全体に組み込まれていくこと。
これは、「誰だって自分がかわいい」という考え方と、
正反対であるがゆえによく似た像を結ぶ。

孤立無援ではなく、孤立有援。
孤立を深めつつ、社会との接点を模索しつつ、
自ら発信―発振して、共振する場を生じさせることを目指す。
(自分も相手の中心にとって出来うる事をなすことは、言うまでもない)

私の人生に力強い爪痕を残した絵画に、
イヴ・タンギーの「弧の増殖」がある。
あの絵画を、いわば“読み替える”こと、
マンダラ化させること、
自分中心のマンダラを増殖させ、
それが自ずから世界全体のマンダラに組み込まれるということ。

私はまだ、本当のほんとうの意味で、
「自分中心」になれていないのではないか、という気がしてくる。
自分中心の神殿を、円相として行なうことができるか、
そしてそれを全体に組み込ませることができるかどうか、ということ。
社会が有機体である、という考えからいえば、
社会そのものには、自我がないのだ。
免疫学で言う「スーパーシステム」のようなことを、
自覚的に、発信(私に限って言えば“発振”)できるか、ということ。
(そう。スーパーシステム内部の免疫細胞の一つひとつには、自我がない。だが、一人ひとりの人間は、自覚的に、社会に対して自分中心の円相を行なうことができるのかということ。それができないと、「だれだって自分がかわいい」という発想と、ほとんど変わらなくなってしまう気がしてならないのだ。)

こういうことを、「理屈じゃなくやる」のは、ほんとうに難しい。
それでも、自分にしかできないことをやる人間は、自分しかいないのだ。

こういったことを、
驕りにも堕落にも陥らずに自己を増幅させて行くということを、
円相として、自己中心のマンダラとして、
同時にそれが世界の伽藍の砂一粒として、
黙々と生じさせていくようなイメージで、
最近、ずっと、自分の内外を見つめているのです。
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追記します。
この記事を公開して一夜明け、考えてみると、
映画や演劇など、
多くの予算と多くの技術と多くの人が、
組織的に動かなければ成立しない芸術は、
だんだんと困難になっていくのかもしれない、
この記事には、「組織的芸術」についての考察が編みこまれていない、
そう自己省察しています。

なんとなく、古代エジプト時代に、
数千年にわたって、少しずつ少しずつ、
ピラミッドが小さくなっていったように、
大掛かりな芸術は、少しずつ少しずつ、小規模化せざるをえないのかもしれない、
いまはそのように考えつつあります。

でも時代が変われば、また違った状況が見えてくるかもしれません。

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