穴惑いと新たな孤独についての雑感 

夜中。見慣れない場所。
コンクリートとアスファルトばかりのビルの谷間だから、
かなりの都会であることがわかる。でも人の気配はない。
街灯もほとんどない。暗い。
駅も見当たらない。きっと電車も終わっていることだろう。
どこへ向かって歩けば自分の家に戻れるのか。
見覚えのある場所はないのか、
見覚えのある道にでも出くわさないかと、
ひたすら歩く。
どこまで行っても、見慣れないコンクリートの暗い街である。
かろうじてタクシーを拾ったが、
どこへ向かうように告げればいいかわからない。
わからないままに、タクシーが走り出す。
窓の外を見る。
どこまで行っても、見慣れないコンクリートの街である。
仕方なしにタクシーを降りる。
夜中。見慣れない場所。
どこへ向かって歩けば家に帰れるのだろう。

――ほとんど一晩中、延々とこのような夢を見ていた。

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目が覚めてから、亡父の晩年の俳句に出てくる、
「穴惑い」
という季語を思い出していた。
あなまどい。冬眠するための穴を、失うか、あるいはその場所がわからなくなったりして、冬にさまよっている蛇のこと。
父は晩年、自分の姿を「穴惑い」になぞらえた句をいくつか書いている。
時の流れ、世の中の変化はことのほかつらいことだったようで、
父は晩年、「牛や馬が見えない世の中になって寂しい」とでも言うような句も書いている。
新しいものに対する疎外感。違和感。それがひたすら積み重なっていったのだろうか。
ボールペンも無い時代に育ち、ワープロにまで適応し抜いた父。
インターネットや携帯を、あまり理解できない様子だった父。

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この世に対する猛烈な違和感。
それが若者に特有のものであるかどうか、
私には、よくわからない。
そもそも、「この世に対して猛烈な違和感を感じている」という人に逢っても、
それが自分が抱えるものと同じだと感じることは、比較的少ないような気がしている。
(H・ヘッセも似たような述懐しているのをどこかで読んだ気がする。)
おそらく、年齢とともに徐々に折り合いがついていく違和感と、
もっと根源的な、生来の違和感というものが存在していて、
それらは他人からは同じもののように見えるのかもしれない。

最近、そういった“生来抱える根源的な違和感”や、
“年とともに折り合いがついていく違和感”に、加わってきたのか、
あるいはそういった違和感とゆっくりと入れ替わっているのかわからないが、
「この世が見知らぬものになっていく。帰りたいのだが帰れない」
という、言葉にすると大して変わらないけれど、
体験としては別種のヴィジョンに苛まれる事が増えてきた。

年をとったのかもしれない。
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ヘッセは晩年、「ガラス玉演戯」に代表されるような、
若いころの作風とは著しく違う、
驚くべき作品を書くようになる。
(恐るべきことに、若いころの「デミアン」のような傑作が、
たいていの人には“青春”を描いているように読めるらしい。
そのことも、ヘッセ自身が半ば諦めたように述懐しているのを読んだことがある。)
ヘッセは、水彩画を描いたり庭仕事をしたりしながら、
非常に時間をかけて、後半生の作風を生成させていった。
しかも、前半生と調和させる形で、それを成し遂たように、私には思える。
これは、ほとんど考えられないことだ。

私の晩年は、どんなだろう。

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