2015年の二つの体験 

何がどう忙しかったのか、
文章にするのも煩わしいほどに、忙しい一年であった。

そんな中でも、私は、いくつかの大きな体験をし、
私は、今年、大きく変化した。(ように思う。)

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この種の体験は、精密に言語化することができない。
この種の体験が記された書物が、
しばしば「奇書」として扱われるのも肯ける。

そして、そのような「奇書」に記されていることと、
自分が体験したことが、似ているのかどうかも、
そもそもよくわからない。
ある人は自分用にメモしておいたものを、
死後公開されてしまったろうし、
ある人は弟子にこっそり語ったことが、
弟子のメモによって後世に伝わっている。
ある人は何らかの“症状”によって書いてしまったろうし、
人によっては尾ひれを付けたり、そもそもデタラメだったりして、
他人の注意を引くつもりで書いているのだろう。

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2015/4/14、私は、
人生経験の途上に於いて、
黒い太陽を見た。
その描写は、とても難しい。
様々な文献で散見したことのある「黒い太陽」、「真夜中の太陽」と、
同じものか、別のものかも、わからない。
私の場合、自らの頭部の周りに横にした卵形の空間があり、
大きい側(気室がある側)に自分の頭部があって、
もう反対側に黒い太陽が黒い光を発しているようなイメージであった。
黒い光の飛沫が自分に降り注いでくる、その軌跡が、
その空間が卵形であることを示していた。

その経験を経て、いくつか気づいたことがある。
まず、かつて私が「無神感」と呼んでいた体験。
「神も仏もありゃしない」といったような状況ではなく、
「あ、今この瞬間、この出来事は、あらゆる神々に、確かに、見えていない。」
という圧倒的な実感について。
このような地上の問題―天使にも見えていない問題―は、
じつは、死者達にはかなりの部分が見えているらしい、ということ。
神秘学で言う、人間にしか出来ないこと――
――死、貨幣経済、死んだ思考。(苦しんで子を産む、額に汗して働く、アダムに還る。)
これらは神々には見えないのであって、
死者、即ち死んでいる人は“人間”なのだから、
かなりの部分を把握しているのだ。
――なぜこんなことに気づかなかったのだろう。
体験するまで、思いもよらなかった。

生まれてきた原因、生きている原因、死んでいく原因は、
本質的には、同一であるということ。
今生の精髄。生の立脚点と死の立脚点が、同じ。
「人は何のために生き、何のために死ぬのか」といった理想ではなく
「何のために自ら生かされ、何のために自ら殺されるのか」とでもいうもの。

私が見た黒い太陽が、文献のどれに該当するのかわからない。
この種の体験には、個々人によって無限のバリエーションが
あるものかもしれない。
(幻覚・妄想の類いかもしれないなと思ったら、ここに書いてない。)

思考像として最も近いものは、R・シュタイナーの、
「人間は生まれる前に、自らの人生の概略を見る」
といった記述が最も近い。「まさにそれだ」と言いたくなる。
が、無論、生まれる前ではない。今年の4月の話である。
別の文献で「コーザル体」と呼ばれているものを自ら見たのかも知れないし、
違うのかも知れない。

そして、この「人生の概略としての黒い太陽」は、
思考で捉え直すと、「ウロボロス」の図形に変化する。

ここでもかつての自分の考察と齟齬が生じる。
この場合、未分化・始原としてのウロボロスではない。
自らの尾を噛み、その痛みに怒ってさらに噛む。
そうしてさらに痛んで、さらに噛む。
そういうウロボロス。
かつて、わが禅師に、「丙丁童子来求火」、火が火を求めている、
というのをネットかなんかで読んでごらん、と言われたが、
それとも近い。
いわゆる「そは汝なり」とも近いが、
「そは汝なりと思って生きてきたことが、間違いであった。そは汝であったのだ」
とでもいうか。
まさに言語表現の限界である。

(そう思って過去の記事を調べたら、かつての自分の体験や考察と、
今こうして書いている内容とに、そんなに大きな齟齬はないことに気づいた次第。)

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この体験をしてからというもの、
私の中でかなり大きな変化が起きた。
以前であれば、坐禅中、自分の下に円相、自分の上に円相を設け、
上昇、乃至、両者の調和、を目指していた。
(無論言葉にすればこういうこと、という意味で、円の観相はしていない。)

だが、この体験以降は、怒りなどでうまく坐れないときは、
自分の目の前にひとつ、あるいは自分を取り囲むように複数のウロボロスを思い浮かべ、
その尾を噛むのをやめることを想像したりしていた。
「ああ、そうだったのか。痛むのは、自分が噛んでいるからだったのか。
噛まれているのは、噛んでいる自分であったのか」
と、ウロボロスが、噛むのをやめる。
そうすると、円の軌跡を描いて萎むように、ウロボロスが消失していく。
その軌跡が、円相になる。

言葉で物語ると、上記のような感じのことを、数ヶ月やっていた。
半ば自発的な観相であり、途中から目の前に自ずから生じる物語となる。
それによって、私は大きく変化したように思う。

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そのような数ヶ月が過ぎ、
私は、2015/9/25頃、坐禅中、自らの中で、
アーリマンを捕獲した。
「黒い太陽」を見た後、「ウロボロスを解く」ように坐禅していて、
私は、自らを生きさせているエネルギーが、
猛スピードで下から斜め前方へ(胸の辺りまで)突き進みつつ、
突進したまま静止し続けているのを確認した。
つかまえたっ!と思考で捕獲すると、
それは、まぎれもなく、アーリマンであった。
それは非常に固く、奇妙に軽く、赤銅色をした「弧」で、
その弧はゴキブリの頭部に似ていた。

それを何と呼ぶか、「黒い太陽」よりもさらに難しい。
何をどう考えても、悪魔「アーリマン」なのだが、
そんな風に体験した、という文献も知らないし、
そういう体験をしたという話を聞いたこともない。
心理学なら「アグレッション」とか呼ぶかもしれないし、
神秘学の人なら「境域の小守護霊」と呼ぶか、
「カルマの実体」と呼ぶかもしれない。
ならば、「アーリマン」ではなく、むしろ「黒い太陽」と同じものではないのか。
わからない。
私が「とっ捕まえた」エネルギーが、「アーリマン」であることを、
私は、全く疑うことが出来ない。

私が怒っているのではない。
怒りが私になっているのだ。


では、私はアーリマンの眷属か。
そんな大それたものではない。
自分を生きさせている怒りと否定のエネルギーそのものを、
客体化できた、という程度のことか。

この「捕獲」によっても、私はかなり、変化した。
どう変化したのか、言語化することができない。

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こういうのを「秘儀参入」というのかどうか、わからない。
「キリスト体験」と似ているようにも思うし、全く別の何かのようにも思う。
ただ、しばしば語られる、
「秘儀参入した後も、それまで通りの人生が続くのだ」
という言葉の意味は、理解したように思う。

4月に黒い太陽を見た直後、私はライブ「元型ドローンVol.9」を行った。
自分の音に愕然とした。
あれほど決定的な体験だったというのに、
音になんの影響も及ぼしていない。
私は、気を取り直すのに、数分間の時間を要した。
芸術体験と神秘体験には、思っている以上に、関連性が、ない。
あたりまえといえばあたりまえだが、
不思議といえば不思議きわまりない。

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この一連の体験を、数ヶ月経ってから、
ようやく多少なりとも言葉に出来るようになってきたとき、
禅師に「なんかあったのか」と訊かれ、話してみた。
そして、自分としては、この体験によって、
いわば「悟り」とか、「神の国」とか、そういったものから、
むしろ、すっかり遠ざかってしまったように感じる、と話してみたら、即座に、
「いや近づいてる。」
と仰せであった。
禅師が仰せになるには、
「そのとっ捕まえたやつは、手を離すと、何もないことがわかる」
との事だが、今のところ、捕まえると(そいつの活動が)ひとまず止まる、捕まえると止まるが続いている。
いわば、生命の土台のようなものであるので、
これが「ない」状態を、私はまだ思い浮かべることが出来ない。

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いざ普段考えている事をこうして言葉にするにも、
かなりの時間がかかる。
ユングのように自分の体験を言葉にするのに四十年かける人もおられるので、
自分はこれでも拙速なのではないか、という思いもある。

更新を滞らせながら、今年はこんな経験をしていた。
ここのブログは、1ヶ月以上更新しないと広告が出る仕組みのようなので、
今後もなるべく月に1回は更新したいと思っている。

しかし、いったん文章にし始めると、
格段に時間がかかるようになってきている。
思うことも複雑になってきているし、
気力、視力も落ちているし、
書く時間もなくなってきている。
そもそもこれ書いてきちんと読んで下さる方がどのぐらいおられるのか。
よくわからない。

それでも、時折、こうして、書いている。
いつまで続くかわからないが、
続けられるだけ、続けようと、思っている。
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ここに書かれている事は、
どうにかこうにか言語化したものですので、
お読みになった皆様の中でご判断下さい。

舟沢に直接問いただしても、ここに書いてある以上のことは、
多分、出てきません。

「舟沢の書いていることは、この文献とはこう違ってる」ということも多々あろうかと思います。
舟沢自身、「おかしいな。勉強してきたことと同じような違うような、微妙な感じだな」
と思って体験しております。
むしろ、「舟沢の体験はこれこれこうだ!」と言い切る人が現れたら、
私はその人のことを、ちょっと警戒するかもしれません。

ここに書かれている内容には、これといった権威はありません。
ご了承下さい。

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