老化、刷新、肉離れ
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前回のライブの1週間ほど前だったろうか、
作業していたノートパソコンが壊れた。
予兆らしき予兆もなく、「ハードディスクが不良です」とエラーが出たっきり、
まるっきり動かなくなった。
------------------------
ノートPCを買い替えた時に“購入ポイント”も入ってきたし、
ちょうど仕事の切れ目だし、と、
音楽用のタワーPCも買い替えることにした。
昨年末、タワーPCを梱包していて気づいたのは、
自分の身体の衰えであった。
数年前から筋トレなるものをやってはいるが、
筋肉ではカバーしきれない、
重いものを持つことが難しくなっていく“実感”。
1か月に数回のペースでぎっくり腰をやっていた時期とも全く違う、
言葉で正確に言い表すことのできない、いわく言い難い“実感”。
多少は筋力の問題なのだろうけれど、
筋肉よりももっと本質的なところで、
何かが始まっているように感じる。
この先、重いものを持つことが、
どんどん難しくなっていくらしい。
------------------------
そういうわけで、年末年始、
自宅にある、かなりの機材を、処分した。
あるものはネットオークションで売却し、
あるものは楽器屋さんに下取りに出した。
一番重い機材は、ハードケースに入れて30キロ弱だろうか。
昔はこの機材を、気合と根性で階段から上げ下ろししていたのだが、
この先はもう無理だろうし、
この機材を実戦で最後に使用した時を思い起こすと、
たぶん2012の楽曲であったろうと思う。
今は2019。かなり長い間、使っていない。
これでしか出せない音がある、
自分ですら二度と作れない音がメモリーしてある、
と思って維持してきたが、
なければないなりに、音楽は作れそうだ。
体力が残っている今こそが、
整理どき、刷新どきなのだ。
------------------------
腰痛コルセットを巻いて、
注意深くハードケースに入れ、
注意深く、時間をかけて、玄関まで持っていく。
下取りに出ていく機材たち↓

(中には30年ぐらい使い続けたものもある)
――これでいい。
あとは、楽器屋さんが手配してくれた、
運送業者さんが来るのを待つだけだ。
運送屋さんから電話が来る。
(聞いたこともない業者さんだ)
あなたの家の場所がわからない、という。
現在地を訊けば、自分の家から50mほどのところまで来ている。
そこを引き返して直進です、と言っても、要領を得ない。
電話の向こうが、ひどく、たとたどしい。
玄関の前で穴から覗いていると、
人影がやってきて、きょろきょろと、
たどたどしく、部屋を探している。
たまらず、向こうがドアベルを鳴らす前に、こちらからドアを開ける。
ぱっと見、70代らしき男性である。
笑顔で、荷物を取りに来たと言われる。
これです。重いですよ、と言うと、持ち上げるなり、
「ああ、こんなに重いもの、生まれて初めて持った」
と笑顔で言いながら、階段を下りていく。
階段の向こうから、ガシャン!ガシャン!と、
けたたましい音が聞こえてくる。
重すぎて、階段のあちこちに、ぶつけているらしい。
慌てて自分も下りていき、
機材の片側を持つ。
「いやぁ、助かります。それにしてもこんなに重いものがあるなんて」
と、業者の男性、笑っておられる。
どうにか車に積み込んで、伝票にハンコを押します、というと、
「ああ、伝票。あった方が安心ですよねぇ。」
と、ひどくたどたどしく、時間をかけて、伝票を書き始める。
じゃあどうも、と、70代らしき男性、笑顔で去っていった。
------------------------
運送業の前はどのような仕事をしておられたのだろう。
日に焼けていて、屈託なく、
30Kgのものを「生まれて初めて持つ」。
造園業だろうか。なんだろう。
もちろん、その人に対しても、
手配をした楽器屋さんに対しても、怒ったりはしない。
歳をとって、たどたどしく、
「こんなことは生まれて初めてだ」
と驚きながら生きていく老人というのは、
どう考えたって、
近未来の自分じゃないか。
小津安二郎の映画に出てくる、笠智衆が演じる、
「お父さんの人生はもう終わりに近づいているんだよ」
という老人の年齢と、今の私は似たり寄ったりだし、
ヴィスコンティの映画「山猫」に出てくる、
「山猫は山猫のままだ」
と威厳をもって年老いていく主役の設定年齢は、
40代なのだそうだ。私より年下じゃないか。
なのに、人生も、生活も、終わらない。
次から次へと、やらねばならないことは増えていく。
若くあらねば、社会生活が営めないのだ。
こんなにも長く、延々と、
若くあらねばならない時代、
そうでなければ生きることも死ぬこともできない時代というのは、
人類史上、前例がないのだ。
これが21世紀初頭、
これが超高齢社会なのだ。
「もう重いものを持てなくなるぞ」と、
重いものを手放す自分も、
それを「こんな重いものを初めて持った」と運んでいく年上の男性も、
超高齢社会の一員なのだ。
真新しいノートPCをブルーライトカットモードにして、
その上ブルーライトカット老眼鏡をかけ、
ドライアイ用の目薬を差しながら、
こうしてブログを書いている。
これもまた、21世紀の姿なわけだ。
------------------------
人間がある程度成長しきった後に、
思いがけず訪れるものについて考える際に、
近年、頻繁に、というか一日に何度も、
タルコフスキーの映画「サクリファイス(1986)」を思い出してしまう。
(今、「86年だったよな」と念のため検索したら、
自分がタルコフスキーの没年齢と同い年であることに気づいた‥)
いろいろな人が、いろいろに解釈するあの映画だが、
私がいま考えているのは、
鈴木大拙著「日本的霊性」でいう「霊性」にちょっと近い、
思考不能な領域というか、
思考も感情も意志も通用しない、
むしろ思考や感情や意志・衝動が、
そこからやってくる、とでもいうような、
広大無辺な領域について。
「サクリファイス」の中盤、
郵便配達人の男が、ストーリーの中で突然、
大げさなまでに激しく、卒倒する。
やがて、自分の身体(?)を見下ろし(?)ながら、
「これはいったいどうしたことだ」
と、笑顔で、ゆっくりと、起き上がる。
あのとき、何が起こったのか。
霊性が流入したともとれるし、
急病だ、ともとれる。
ラストシーンの主人公の室内における身体の動きも、
霊性が入ってあの歩き方になったのだ、とも見えるし、
脳梗塞の動きだ、ともとれる。
ダブルミーニングなのか、一如なのか。
老化とポストモダン、
上昇停止体験とその先にある“何か”、
獲得と同時に生じる喪失、
何かが顕現するときに生じるある種の“抜け”、
行為と不行為の同時性、
そういったものについて、
近年、ことあるごとに、考え続けている。
「元型ドローン」と名付けたライブシリーズだって、
その問いかけであると同時に、その答えでもあるようなことを、
やらせていただいている。
(来てくださる皆様、協賛のストライプハウスギャラリー様、ありがとうございます。)
------------------------
重い機材を手放して三日後のことだが、
それにしてもこの“感じ”を、
音にするのみならず、
どうにか思考なり言語なりで、
取り扱うことはできないかなぁ、
“これ”をどうにか観察したり、
コントロールしたりできないものかなぁ、
などと考えていた。
食事が終わり、席を立とうとしたとき、
突然、足に激痛が走り、
そのままその場に倒れこんでしまった。
気を失いはしなかったし、
笑顔にもならなかったが、
倒れ方としてはまさに、
「サクリファイス」の郵便配達人のような倒れ方だった。
病院に行くと、
「エコーには映らないけど、この症状は肉離れだろう」
ということで、治療が始まった。
いま、30cmぐらいの歩幅でしか、歩けない。
常に周囲に気を配り、
誰かの邪魔になっていないか、
あの信号は渡れるか、
この食べ物を持って、階段を昇れるだろうかなどと、
たどたどしく歩きながら、頭は、フル回転だ。
ちょっとでもバランスを崩すと、
足に激痛が走って、全身の力が抜けてしまう。
そのようにたどたどしく歩きながら見回すと、
今まで目に入らなかったけれど、
そういう人の、なんと多いことか。
普段なら「酔っ払いかな」と思いながら、
足早に通り過ぎるような光景でも、
ゆっくり歩いて聞いていると、
警察官が「体に力が入らないんでしょ?救急車に来てもらおう?」
と、転んでいる男性に、親身に話しかけ続けている。
普段使わない駅のエレベーターを使うと、
非常に多くが、足元のおぼつかない高齢の方々である。
特に足元のおぼつかない高齢の方から、
強い尿のにおいがしてくる。
私は、いつか読んだ、高齢者の嗅覚障害に関するブログや、
介護職の人が高齢者とハグするとき、
実は尿失禁をにおいで確認しているのだ、
というドキュメンタリー番組を思い出す。
なるほど。
これが新時代か。
こんなことは初めてだ。
こうして、未体験な世界に、
たどたどしく、入り込んでゆく。
------------------------
それにしても、
「サクリファイス」の郵便配達人も、
機材を持って行った運送業の男性もそうだが、
“これ”を体験しながら、
笑顔でいる人々が、かなりおられる。
以前から考えていたことだが、
能面「翁」の笑顔と、老化との関係。
アルツハイマーの症状に、
「多幸感」という項目を見つけたとき、
これはひょっとして、と思ったものだが、
アルツハイマーにおける多幸感(多幸症)と、
霊性との関係はどうなっているのだろう。
全く別のものなのか、実は一如なのか。
(或いは、いわゆる「防衛機制」、「躁的防衛」との関係は。)
若い頃さんざん考えた、
シャマニズムにおける主観・客観とも、
これはたぶん、つながっている。
------------------------
わかりやすい文体で有名な臨床心理学者、河合隼雄氏だが、
老いに関する記述となると、
「老いの道は老いの未知」
などと駄洒落まじりで、
読んでいて、なんだか要領を得ない感じがしたものだ。
あれは当時、自分の身に起きていないことを読んだので、
いま読み返せば、また違って読めるのかもしれない。
天才的な舞踏家、大野一雄氏が、
ご自身のお母さまの最後の言葉だという、
「私のからだの中をカレイが泳いでいる」
という言葉をイメージの題材によく使っておられたが、
考えてみれば、大野一雄氏のお母さまは、
ご自身の身に起きていることを、
「実況」なさっていたのかもしれない。
体験してみなければ、わからない。
だが、参考にはなる。
いずれにせよ、大半がこれから体験することなわけだから、
「こんなことは初めてだ」
と驚きながら、
たどたどしく、やっていくしかないのかもしれない。
考えてもしょうがないことばかりだが、
考える以外にしょうがない、とも言える。
------------------------
肉離れは2~3週間は痛みが続くので、
そのあとリハビリに入りましょう、
と言われている。
4月のライブには間に合うだろう。
まあ、間に合わなそうになったら、
機材の運搬方法を考え直せばいい。
------------------------
さらっと書くつもりが、
そこそこ長い文章になった。
もうちょっと小分けにして、
日々書いた方がいいのかもしれないが、
なかなか時間も取れないし、
自分の身に起きていること、
自分が考えていることが、
規模的に大きくなっているように思うし、
それをまとめる気力も衰えてきているようにも思える。
というわけで、
ここまでお読みいただき、
ありがとうございました。
(もうちょっと威勢のいいことを書いた方が集客にはいいんでしょうけどねぇ)
あ、ライブよろしくおねがいします。次回は4/14です。
作業していたノートパソコンが壊れた。
予兆らしき予兆もなく、「ハードディスクが不良です」とエラーが出たっきり、
まるっきり動かなくなった。
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ノートPCを買い替えた時に“購入ポイント”も入ってきたし、
ちょうど仕事の切れ目だし、と、
音楽用のタワーPCも買い替えることにした。
昨年末、タワーPCを梱包していて気づいたのは、
自分の身体の衰えであった。
数年前から筋トレなるものをやってはいるが、
筋肉ではカバーしきれない、
重いものを持つことが難しくなっていく“実感”。
1か月に数回のペースでぎっくり腰をやっていた時期とも全く違う、
言葉で正確に言い表すことのできない、いわく言い難い“実感”。
多少は筋力の問題なのだろうけれど、
筋肉よりももっと本質的なところで、
何かが始まっているように感じる。
この先、重いものを持つことが、
どんどん難しくなっていくらしい。
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そういうわけで、年末年始、
自宅にある、かなりの機材を、処分した。
あるものはネットオークションで売却し、
あるものは楽器屋さんに下取りに出した。
一番重い機材は、ハードケースに入れて30キロ弱だろうか。
昔はこの機材を、気合と根性で階段から上げ下ろししていたのだが、
この先はもう無理だろうし、
この機材を実戦で最後に使用した時を思い起こすと、
たぶん2012の楽曲であったろうと思う。
今は2019。かなり長い間、使っていない。
これでしか出せない音がある、
自分ですら二度と作れない音がメモリーしてある、
と思って維持してきたが、
なければないなりに、音楽は作れそうだ。
体力が残っている今こそが、
整理どき、刷新どきなのだ。
------------------------
腰痛コルセットを巻いて、
注意深くハードケースに入れ、
注意深く、時間をかけて、玄関まで持っていく。
下取りに出ていく機材たち↓

(中には30年ぐらい使い続けたものもある)
――これでいい。
あとは、楽器屋さんが手配してくれた、
運送業者さんが来るのを待つだけだ。
運送屋さんから電話が来る。
(聞いたこともない業者さんだ)
あなたの家の場所がわからない、という。
現在地を訊けば、自分の家から50mほどのところまで来ている。
そこを引き返して直進です、と言っても、要領を得ない。
電話の向こうが、ひどく、たとたどしい。
玄関の前で穴から覗いていると、
人影がやってきて、きょろきょろと、
たどたどしく、部屋を探している。
たまらず、向こうがドアベルを鳴らす前に、こちらからドアを開ける。
ぱっと見、70代らしき男性である。
笑顔で、荷物を取りに来たと言われる。
これです。重いですよ、と言うと、持ち上げるなり、
「ああ、こんなに重いもの、生まれて初めて持った」
と笑顔で言いながら、階段を下りていく。
階段の向こうから、ガシャン!ガシャン!と、
けたたましい音が聞こえてくる。
重すぎて、階段のあちこちに、ぶつけているらしい。
慌てて自分も下りていき、
機材の片側を持つ。
「いやぁ、助かります。それにしてもこんなに重いものがあるなんて」
と、業者の男性、笑っておられる。
どうにか車に積み込んで、伝票にハンコを押します、というと、
「ああ、伝票。あった方が安心ですよねぇ。」
と、ひどくたどたどしく、時間をかけて、伝票を書き始める。
じゃあどうも、と、70代らしき男性、笑顔で去っていった。
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運送業の前はどのような仕事をしておられたのだろう。
日に焼けていて、屈託なく、
30Kgのものを「生まれて初めて持つ」。
造園業だろうか。なんだろう。
もちろん、その人に対しても、
手配をした楽器屋さんに対しても、怒ったりはしない。
歳をとって、たどたどしく、
「こんなことは生まれて初めてだ」
と驚きながら生きていく老人というのは、
どう考えたって、
近未来の自分じゃないか。
小津安二郎の映画に出てくる、笠智衆が演じる、
「お父さんの人生はもう終わりに近づいているんだよ」
という老人の年齢と、今の私は似たり寄ったりだし、
ヴィスコンティの映画「山猫」に出てくる、
「山猫は山猫のままだ」
と威厳をもって年老いていく主役の設定年齢は、
40代なのだそうだ。私より年下じゃないか。
なのに、人生も、生活も、終わらない。
次から次へと、やらねばならないことは増えていく。
若くあらねば、社会生活が営めないのだ。
こんなにも長く、延々と、
若くあらねばならない時代、
そうでなければ生きることも死ぬこともできない時代というのは、
人類史上、前例がないのだ。
これが21世紀初頭、
これが超高齢社会なのだ。
「もう重いものを持てなくなるぞ」と、
重いものを手放す自分も、
それを「こんな重いものを初めて持った」と運んでいく年上の男性も、
超高齢社会の一員なのだ。
真新しいノートPCをブルーライトカットモードにして、
その上ブルーライトカット老眼鏡をかけ、
ドライアイ用の目薬を差しながら、
こうしてブログを書いている。
これもまた、21世紀の姿なわけだ。
------------------------
人間がある程度成長しきった後に、
思いがけず訪れるものについて考える際に、
近年、頻繁に、というか一日に何度も、
タルコフスキーの映画「サクリファイス(1986)」を思い出してしまう。
(今、「86年だったよな」と念のため検索したら、
自分がタルコフスキーの没年齢と同い年であることに気づいた‥)
いろいろな人が、いろいろに解釈するあの映画だが、
私がいま考えているのは、
鈴木大拙著「日本的霊性」でいう「霊性」にちょっと近い、
思考不能な領域というか、
思考も感情も意志も通用しない、
むしろ思考や感情や意志・衝動が、
そこからやってくる、とでもいうような、
広大無辺な領域について。
「サクリファイス」の中盤、
郵便配達人の男が、ストーリーの中で突然、
大げさなまでに激しく、卒倒する。
やがて、自分の身体(?)を見下ろし(?)ながら、
「これはいったいどうしたことだ」
と、笑顔で、ゆっくりと、起き上がる。
あのとき、何が起こったのか。
霊性が流入したともとれるし、
急病だ、ともとれる。
ラストシーンの主人公の室内における身体の動きも、
霊性が入ってあの歩き方になったのだ、とも見えるし、
脳梗塞の動きだ、ともとれる。
ダブルミーニングなのか、一如なのか。
老化とポストモダン、
上昇停止体験とその先にある“何か”、
獲得と同時に生じる喪失、
何かが顕現するときに生じるある種の“抜け”、
行為と不行為の同時性、
そういったものについて、
近年、ことあるごとに、考え続けている。
「元型ドローン」と名付けたライブシリーズだって、
その問いかけであると同時に、その答えでもあるようなことを、
やらせていただいている。
(来てくださる皆様、協賛のストライプハウスギャラリー様、ありがとうございます。)
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重い機材を手放して三日後のことだが、
それにしてもこの“感じ”を、
音にするのみならず、
どうにか思考なり言語なりで、
取り扱うことはできないかなぁ、
“これ”をどうにか観察したり、
コントロールしたりできないものかなぁ、
などと考えていた。
食事が終わり、席を立とうとしたとき、
突然、足に激痛が走り、
そのままその場に倒れこんでしまった。
気を失いはしなかったし、
笑顔にもならなかったが、
倒れ方としてはまさに、
「サクリファイス」の郵便配達人のような倒れ方だった。
病院に行くと、
「エコーには映らないけど、この症状は肉離れだろう」
ということで、治療が始まった。
いま、30cmぐらいの歩幅でしか、歩けない。
常に周囲に気を配り、
誰かの邪魔になっていないか、
あの信号は渡れるか、
この食べ物を持って、階段を昇れるだろうかなどと、
たどたどしく歩きながら、頭は、フル回転だ。
ちょっとでもバランスを崩すと、
足に激痛が走って、全身の力が抜けてしまう。
そのようにたどたどしく歩きながら見回すと、
今まで目に入らなかったけれど、
そういう人の、なんと多いことか。
普段なら「酔っ払いかな」と思いながら、
足早に通り過ぎるような光景でも、
ゆっくり歩いて聞いていると、
警察官が「体に力が入らないんでしょ?救急車に来てもらおう?」
と、転んでいる男性に、親身に話しかけ続けている。
普段使わない駅のエレベーターを使うと、
非常に多くが、足元のおぼつかない高齢の方々である。
特に足元のおぼつかない高齢の方から、
強い尿のにおいがしてくる。
私は、いつか読んだ、高齢者の嗅覚障害に関するブログや、
介護職の人が高齢者とハグするとき、
実は尿失禁をにおいで確認しているのだ、
というドキュメンタリー番組を思い出す。
なるほど。
これが新時代か。
こんなことは初めてだ。
こうして、未体験な世界に、
たどたどしく、入り込んでゆく。
------------------------
それにしても、
「サクリファイス」の郵便配達人も、
機材を持って行った運送業の男性もそうだが、
“これ”を体験しながら、
笑顔でいる人々が、かなりおられる。
以前から考えていたことだが、
能面「翁」の笑顔と、老化との関係。
アルツハイマーの症状に、
「多幸感」という項目を見つけたとき、
これはひょっとして、と思ったものだが、
アルツハイマーにおける多幸感(多幸症)と、
霊性との関係はどうなっているのだろう。
全く別のものなのか、実は一如なのか。
(或いは、いわゆる「防衛機制」、「躁的防衛」との関係は。)
若い頃さんざん考えた、
シャマニズムにおける主観・客観とも、
これはたぶん、つながっている。
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わかりやすい文体で有名な臨床心理学者、河合隼雄氏だが、
老いに関する記述となると、
「老いの道は老いの未知」
などと駄洒落まじりで、
読んでいて、なんだか要領を得ない感じがしたものだ。
あれは当時、自分の身に起きていないことを読んだので、
いま読み返せば、また違って読めるのかもしれない。
天才的な舞踏家、大野一雄氏が、
ご自身のお母さまの最後の言葉だという、
「私のからだの中をカレイが泳いでいる」
という言葉をイメージの題材によく使っておられたが、
考えてみれば、大野一雄氏のお母さまは、
ご自身の身に起きていることを、
「実況」なさっていたのかもしれない。
体験してみなければ、わからない。
だが、参考にはなる。
いずれにせよ、大半がこれから体験することなわけだから、
「こんなことは初めてだ」
と驚きながら、
たどたどしく、やっていくしかないのかもしれない。
考えてもしょうがないことばかりだが、
考える以外にしょうがない、とも言える。
------------------------
肉離れは2~3週間は痛みが続くので、
そのあとリハビリに入りましょう、
と言われている。
4月のライブには間に合うだろう。
まあ、間に合わなそうになったら、
機材の運搬方法を考え直せばいい。
------------------------
さらっと書くつもりが、
そこそこ長い文章になった。
もうちょっと小分けにして、
日々書いた方がいいのかもしれないが、
なかなか時間も取れないし、
自分の身に起きていること、
自分が考えていることが、
規模的に大きくなっているように思うし、
それをまとめる気力も衰えてきているようにも思える。
というわけで、
ここまでお読みいただき、
ありがとうございました。
(もうちょっと威勢のいいことを書いた方が集客にはいいんでしょうけどねぇ)
あ、ライブよろしくおねがいします。次回は4/14です。
- [2019/01/19 22:32]
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